5月12日に金曜ロードショーで
もののけ姫が放映されるということで。
2005/04/03(日)
正論3月号では評論家佐藤健志氏の
ハウルの動く城を題材にした非論理への
批判文も面白かった。
映画のあらすじを紹介しつつ、いかに不整合・支離滅裂・非論理的で
あるかが述べられている。私はまだハウルを見ていないので氏の指摘が的確であるかは
わからない。ハウルを見てからまた読み返したい。
彼は「
千と千尋」「もののけ」「ハウル」には共通した
メッセージが織り込まれていると言う。
それは、「上の世代の勝手な行動のせいで、どんな迷惑や被害を受けようと、恨んだり
反抗してはいけない」というもの。
「千」と「もののけ」は私も観ている。メッセージはどこにあらわれていたのか。
(****内は佐藤氏の文章を要約したもの。
映画タイトル略称以外の『』内は佐藤氏の文章を引用した部分。)
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「もののけ」で主人公アシタカは突如ムラを襲おうとする神を退治したことにより、呪いを
受けてしまう。アシタカは好き好んで神を討ったわけではないし、ムラは神に襲われる
理由もなかった。なぜ神は襲ってきたのか。呪いを解くための旅に出たアシタカは、「自然」と
抗争するエボシ御前と出会う。そしてエボシによって傷付けられた自然の神が暴走し、
アシタカのムラを襲ったことが判明する。
アシタカはエボシと自然とも対立することなく、『観念的な平和主義者さながら』『自然と人間の
共生』を訴えて終わり。
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そう、アシタカはとばっちりを受けたことを怒らないのだ。
良く言えば人格者である。アシタカはサンに「共に生きよう」と言い、それが自然と人間の
共生を意味する象徴的な台詞になっているが、具体的にどうするのかよくわからん。
そういうことを全く考えずに観ていたのが恥ずかしい。
なんでそういうことを考えなかったかといえば、映画を観ている間中、サンを
おかずに
ポコチンをいじっていたので脳への血液供給量が低下し思考能力が衰えていたからである。
私がインポテンツであったなら、高い思考力ですぐさま作品の問題点を見抜いていただろう。
話はずれるが、この作品は、どちらかというとエボシのような自然を切り開いた人間が
悪いような描かれ方をしていたが、先に住みついていたものが幅を利かせて人間の台頭を
阻むのも結構アレなんじゃねえのかな。
自然界は弱肉強食自然淘汰の世界。自分達も縄張りを広げてきたのに、人間が縄張りを
広げると悪で自然が縄張りを維持・拡大するのは善いっていうのは、ダブルスタンダードと
いうやつではないだろうか。タンポポが綿毛を飛ばして広範囲への増殖を目指す、
冬虫夏草がセミを養分にして成長する、トンボが縄張り争いの喧嘩をする。
人間がやっているのは、そういうのと同じではないだろうか。(ただ、人間は他を淘汰する力が強い)
自然が地球環境を考えて繁茂してきたわけではあるまい。
自然はこれまで勝手にやってきたのである。人間も勝手にやったのである。
それを観念的な善悪で分けてしまうのはおかしくないだろうか。
自然が絶対的な大いなる善であるという、非論理的な根拠に根差した価値観に基づいた作品と
いえるのではないか。自然に善悪のモラルはない。子孫繁栄という本能があるだけである。
自然を破壊することによって地球環境が悪くなり、人間が苦しむようになったというのなら、
責めるべきは人間の行ってきた繁栄作戦のミスであり、善悪というモラルで断罪することは
自然至上教信者による人間への差別ではないだろうか。
あと、アシタカはムラを出るときに女の子から大切にしていた綺麗な石を貰い受けるが、
それ以降、その彼女のことを何にも考えないし、思い出す様子もない。
そもそも故郷のことさえ頭から消え去ったかのようだ。
情のない男。
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「千と千尋」は『軽薄かつ身勝手な両親のせいで』異世界へ迷い込み、働くはめになった少女
千尋の物語。千尋は豚に変身した両親を救うべく、阿呆な両親も、自分をこき使う魔女も
恨まずに『運命を従順に受け入れる』。結果、両親を救い出すが、やっぱり千尋は『軽薄かつ
身勝手な』両親を責めたりしないのだ。
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「上の世代の勝手な行動のせいで、どんな迷惑や被害を受けようと、恨んだり
反抗してはいけない」というメッセージは、こっちのほうが解りやすいか。
映画館で見ながら私もなんて身勝手な両親だろうと思ったものだ。
千尋の両親は誰もいない店に置いてあった料理を勝手に、そして豪快に食ったのだ。
確か「お金は店の人が来てから払えばいい」なんて言ってた。
勝手に他人のものを食うものだから豚にされたのである。千尋は止めたのに。
なんてモラルのない親であろうか。
知らない店の料理を勝手に食うことに良心の呵責が働かない親に育てられた子は、
将来きっと「盗作したとか、小さいことでガタガタ言われるとムカツク!」なんてことを言う
モーニング娘。になってしまうのではないかと危惧する。
安倍なっち千尋は馬鹿親を心配するばかりで、ちっとも怒らない。
まさに『上の世代の勝手な行動のせいで、どんな迷惑や被害を受けようと、
恨んだり』しないのだ。
これを奇麗事に言い換えると、『恨んだり反抗したりせず、独力で立ち直るのが真の成長』
になる。そこには不始末をやらかした者の自省がなく、下の者による立派な肩書きのついた
お尻拭き仕事が待っている。
なるほど。もののけ以降の宮崎作品には「下」の立場の者を持つ者にとって随分と
便利な世界観が形成されている。
主人公は素直で、疑いを持たず、与えられた運命(誰かの尻拭い)に疑問を抱かない。
なぜそうなったのか、原因(責任)を追求しないし、すべてを許す。
そればかりか、世界(作り手・世界観・観客)はそんな主人公を「成長」したと
肯定的に見なし祝福するのである。
この調子で行くと、次回作あたりでは主人公の少女が非現実的な世界に迷い込み、
そこでアナル舐めを要求され、真摯にそれに応え、フェラやふぐり舐め、淫語責め、飲尿、
アナル開発、露出プレイなど経験して成長し、一人前のチンポ中毒肉奴隷になる
という映画になることは必定なので、佐藤健志なんかの戯言に惑わされず、
己の価値観を貫いて映画を作っていって欲しい、と切に私は願うのだ。
宮崎駿大先生、バンザーイ! 今、俺のポコチンが勃起してまーす!