買い物帰りに公園を通りがかると、前から日本人と白人の二人組が歩いてくる。
私はイヤホンで
音楽を聴きながら芝生に沿った道を歩いている。顔をあげて歩いているから自然と二人組が視界に入る。白人が何か声をかけてきた。何が起こるか薄薄わかっていたが、無視をするのも心地が悪いのでイヤホンを外してしまったところで案の定やっぱりそれみたことか。三人とも立ち話でスタート。
最初は、ちょっとお時間ありますか、とか何とか言われたいわれたんだと思う。時間は十分あったし、私は人と接するのが少し苦手なので、度胸を付ける意味でも話を聴いてみることにした。私には信仰心がないものの、信仰を持った人の物事の考え方には興味がある。
彼等はキリスト系教団(統一教会じゃないよ)の宣教師(ザビエルカットじゃなかった)で、白人が「私たちの話を聴いたことがありますか」と言う。一年位前にもこの公園で聴いたことがある。
この二人、話すのは専ら白人で、日本人の方は監督らしく、白人の流暢ではない日本語にいちいちうんうんと頷いていた。二人は最後まで笑顔を絶やさなかったが、意識的な笑顔だろう。
話の内容をしっかりとは覚えていないけれど、話の内容が変だったのは覚えている。
家族の中で父親はどうして必要だと思いますか、と問われた。
考えたこともないので困る。だって、生まれたときから傍に居たのだもの、必要不必要で父親の有無を決めているわけではない。それに父親がいないとどうだというのだろう。考えたこともないと率直に答えると、白人は、血縁の父親は物質的なものを与えてくれるけれど、父たる神は精神的なこと――平穏や幸福――を与えてくれるとかなんとか言う。変だと思う。私はこれでも父の言葉や姿から、精神的なものを色々学んだつもりである。平穏も幸福もその逆だって戴いたことがある。金と物だけしか与えなかったような父ではない。そりゃああんたらの神が与えてくれる信仰の見返りに比べたらチンケなものなんだろうけれど、父の精神、ひいてはそれを受け継いだ私の精神までまったく無価値のように言ってのけてくれる口の聞き方なんぞ神様から与えてほしくない。
白人の彼はまだ日本語が上手ではないから話をちゃんと伝えられなかったんだよ、なんてことはない。すぐ傍に監督の日本人が突っ立っているのだ。話し方に不備があれば補足すればよいだろう。しないということ、彼等が宣教師であるということは、この話が教団として公式なものであると受け取ってかまわないと私は思う。
あなたは神の存在をどう考えていますか、神の与えた幸福を感じますか、というようなことを問われた。
私は多神教の考え方をしていて、色んな物に神が宿っていると思う、神といっても全知全能のゴッドではなく、スピリチュアルな意味での神だ、それを信じている、というより、漠然とそう考えている。
幸福は、自分で掴んだものか神が与えたものか判別がつかないので、特に神のものと感じない。
正直にだいたいこのようなことを答えた。もっと細かく言いたいこともあったが、面倒なのと私の会話能力の低さで端折った。このあと白人がへまをやらかす。
私の答えの後、白人は簡単な相槌のように私の言葉の一部を複唱したのだが、「ボクゼンと……」とはっきり言ったのである。私は「漠然」だと指摘した。彼は「バクゼン」と言い直し、神の計画がどうたらこうたらと話を始めたので、ふつふつと沸き上がっていた不信感は一気にヒートアップした。不信感ゲージが満タンになると笑顔が嘲笑しているように見える。
私は喋っているとき、この人はまだ日本語が流暢じゃないからわかるかな、と疑問に思いつつ漠然という言葉を使ったのである。彼は漠然をボクゼンと言った。漠然という単語を知らなかったのである。漠然というのは書家の……、それは莫山。
単語を知らないということは、その意味を知らないということである。意味がわからないということは私の話がわかっていないということである。言葉の意味を質問しないのは、私の話をわかろうとしていないということである。私の話なんか聴いちゃいないということである。もっとも、話の大部分は理解できたのだろうけど、自分から話しかけておいて、相手の話のわかっていないところを放っておいて自分の話をすすめるなど、人を馬鹿にしている。話がわかっていないことなど気付いていないだろうという心理も窺えて、ますますもって馬鹿にしている。
そして隣に黙って突っ立ってにこり(にこにこ、ではない。動感のない笑顔)としている日本人は薄ら馬鹿である。
薄ら馬鹿、その根拠とは、
ひとつ、こいつも私の話がわかっていない。だから白人に漠然の意味を説明しない。そして自分も私に質問して理解しようとしない。
ひとつ、こいつは話がわかっているが、白人がわかっていないことに気付いていない。
ひとつ、こいつは話がわかっていて、白人がわかっていないことに気付いているが、どうでもいい話だと思っているので白人に理解させない。
ひとつ、こいつは話がわかっていて、白人がわかっていないことに気付いているが、どうでもいい話だと思っているので白人に理解させない。そして私がそれを見抜くわけがないと思っている。
ひとつ、話を何も聴いちゃいなかった。
この考えうる五パターンのうち、どれをとっても馬鹿が成立するため私は彼を薄ら馬鹿と判断した。馬鹿に薄らがついているのは、語感がよかったから。
私は取りあえず彼等の言葉を黙って聴いていた。やがて、私は簡単に神の話をすることができるからその話を聴かないかといわれた。
そんなに深入りしていいものかと思いつつも、ブログのネタになりそうなので困った。
いつ、どこで、どのくらいの時間かと問うと、いつでもいいと言う。10分でも5分でもいいと言う。うーん。日本人が場所はそこの芝生に座ってでもいいと言う。渋っていた私だが質問したいこともあったし、話を聴くだけならと思い、じゃあ今から10分くらい、と言うと、白人は
腕時計を見ながら、これから用事があるので今はちょっと……と言い出した。なんだそれ。5分で出来るんだろ。用事があるって、声かけてきたのはそっちじゃないか。ここの芝生の上でいいと言った薄ら馬鹿は黙ってにこりとしている。おい。
本当に用事があるなら、日本人の薄ら馬鹿が今すぐここでもかまわない、というニュアンスのこと(そこの芝生に座ってでもいい)を言うはずがない。それに本当ならば、用事があるので、と白人が言った後に日本人は何か言うはずである。ああそうだった、とか何か。それが普通の会話であり、用事というのが嘘ならば、それでも、ああ、そうだった、とか何とか芝居をすべきである。それが黙ってにこりとしている。
最低限困った顔くらいしろ。にこりとしているのは、用事を忘れていていたにしろ嘘を点いていたにしろ、何も悪びれてちゃいないということだ。
何にしろ、まともな遣り取りができないし、それをちっとも恥じていない。そんな相手にこちらの言葉がちゃんと伝わるはずはない。漠然で既にわかっていたことだが、彼等は私と会話をしようとしているのではなく、自分のペースにのせたいだけでなのだ。
最初からどこかへ連れ込む気があって、安心感を引き出すためにいつでもいいなどと言ったのだろう。
私の不信感は二度目のピークを迎えた。
白人がいつなら時間がありますかと訊いてきた。馬鹿野郎。なんで私が今ここで話につきあったと思ってやがるんだ。
ここは大きい公園で見通しもよく、近くに人が大勢いて、最悪の事態を免れられるからこそ話を聞いている。これがちゃんとセッティングした場所なら、逃げられないような相手の陣地で宣教師が何人やってきて私一人を囲むのかわかったものじゃない。時間はいつでもいい、場所はここでいいと言っておきながら、そっちの用意した時間と場所でないと駄目だなんてあやしすぎるし、漠然の件でとっくに不愉快なので、そっちの都合にそこまで合わせるつもりもない。今度はいつ時間がとれるかわからないので、約束が出来ない。と断った。
その後、名前を教えてくれとか連絡先を教えてくれとかぐだぐだした話が続いて、神の話を聞かないかのお誘いから5分は経過していた。できたじゃねーか、神の話。やっぱ信用ならねー。
にこりと笑った顔も、神を信仰しない憐れな民を蔑む嘲笑にしか見えないし。
こんなボンクラを人前に出してる時点でここの組織の底が知れる。