2015年06月03日

15/6/2

キリストに会った人が後を絶ちませんが、これ、誰も言わないけどさ、本当は会ってない人もいると思うんだよね。
キリストに会ったつもりだけど、実際にはキリストそっくりさんだったとか、似てないけどキリストと自称している誰かだったとか。

キリストに会った人たちで集まって話をしたら、お前が会ったのそれ絶対キリストじゃないよ〜って反応される奴いると思う。
「お前が会ったのもしかして尾崎紀世彦じゃねーの!?」みたいな。
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2015年05月06日

2014年04月03日

約束を果たす立派な私



あれから一週間、私は毎日「写経」を続け、一週間後、これを手渡すためだけに、のこのこと出かけたのであった。偉い。

しかし、到着したものの、あの信徒がいない。前回より少し時間が遅いためだろうか。これは困った。約束なので、何とか今日中に渡したい。
周囲をうろうろしてみると、人混みの中に仲間の信徒らしき中年女性を見つける。前回の人と同じように書類を抱えて、にこやかに高齢女性と話し込み、どうやら宣教活動中らしい。私は傍を離れて話が終わるのを待つ。

相手が解放されて一段落したのを見計らって、信徒に声をかけた。
「統一教会の方ですか」
「ハイソーデスガ、ナンデスカッ」
「!!!」
なんと、このおばさん信徒はそっぽを向いて、吐き捨てるように返事したのだ。明確に嫌な顔をして。
いつもは自分から声をかけておきながら、自分が声をかけられるとこれ。私に敵対の意思はなく、柔らかく声をかけたのに、失礼の不意打ち先制で奇襲されて心がよろける。
さっきのおばあさんとはにこやかに話をしていたではないか! 私とだってにこやかに話をしてほしい。

私は気を悪くするどころか、この人も統一教会に所属していることで様々な批判に曝されて心が歪み捩れ荒んでいるのだろうと、すぐさま慈悲深く気遣った。
そして、鞄から「写経」の紙を取り出すと、一週間前に信徒から声をかけられたこと、提出の約束をしたが前回の信徒が見つからず、代わりにこれを受け取って欲しい旨を、前回の信徒の名を添えて説明した。
するとおばさんの顔は私に向き、みるみるうちに表情が輝いた。受け取った紙をその場で捲って中身を確認しながら、「ああ、そうですかあ」と答える声も弾んでいる。うわあああ、変な事書いてなくて良かったあ。
こうして二人はにこやかに別れたのである。



声をかけられたくらいでムスッとしていた信徒が、私との語らいで笑顔を取り戻したのである。前回は信徒から顔を褒められ、今回は凝り固まった信徒の心を解きほぐした。
これらの出来事は深い示唆を与えた。
文先生の教えを受けずとも良い顔になり、文先生の教えを受けながらも痩せていた信徒の心を豊かにさせたのは、つまり、畢竟、私が文先生より偉いということではないか。
こんな天地が引っくり返るような上下関係を信じる人は誰もいないだろうが、事実、奇跡は起こってしまったので、私の優秀性を確信する他ない。
そのうちイエスも挨拶に来るだろう。
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2014年03月23日

私は人間的に優れている



街を歩いていると声をかけられた。声の主は書類を抱えた中年の女性である。
正確な文句は忘れたが、「あなたの願い事を書きませんか」というようなことを言われた。
私はこの手の誘いへ割合に応じる優しい性質で、いざとなれば無言で走って逃げればいいと思っているから、記入用紙を受け取った。
紙は成就を祈願して焚き上げすると云う。ならばこの人は寺社の関係者か。へえ、焚き上げの呼び込みなんて珍しい。どこで焚き上げされるのですか、と問うと、何処其処の〇〇教会で、と返事された。教会で焚き上げ?
無言で驚いていると、記入用紙の端に「統一教会」と書かれているのを発見する。接触するのは初めてだ。


女性は私に話しかけ続け、写経に興味ありませんか、と誘って来る。手本をなぞるだけの1週間分の写経セットがあるのでやってみませんか、と。基督教系列の教会に写経とは何事ぞとは思うものの、勿論受け取った。
中を見ると、経文らしからぬ一文が書かれている。文先生による愛を説いた一節であると云う。統一教会ではこれを経文と呼ぶのか? あとでHP等を確認すると、「書写」とされている。これなら妥当である。
安請け合いした後で、写経したものは然るべきところに収めるので、必ず1週間後、またここにいるので持って来てください、と強く強く念を押される。1週間後にここを通る用事はないが、私は人格者なのでこの後出しジャンケンの如きを了承する。


さて、願い事記入用紙には住所氏名電話番号メールアドレスの記入欄まであり、そこまで付き合う義理はないので空欄で差し出したら、そこも書いてください、と譲らぬ調子でリクエストされる。厚意で焚き上げに協力してやっているのに何でそんなものまで書く必要があるのか、と嫌々ながらも名前だけ書く。あまり良い名前が思いつかなくて残念だった。それで渡そうとしたが、住所も! と熱いリクエスト。嫌で嫌でペンが進まない。

女性は様々な話を振ってくる。お仕事は何ですか。今日はお休みですか。水からの伝言って御存じですか。やっぱり綺麗な言葉で結晶が綺麗になるように人間の心も綺麗な言葉で綺麗になるんじゃないか云々。
私は伝言を存じておると一言答えただけだったのに支持者だと勝手に解釈され、写経の効能まで説かれてしまったので内心微笑んだ。この人はおっちょこちょいなのだろう。
瞑想をされたことありますか、との問いに、はい、と答えたら、「ああ、やっぱり。良い顔をしていらっしゃるもの」と褒められた。間違いなくこの人には真実を見抜く眼力がある。あとでよく考えたら私は瞑想というほどのことはしたことがなかったが、それにも関わらず「良い顔」をしているのだから、瞑想に明け暮れているような連中とは格が違う。高いところへ到達しようと梯子や階段を使うのが凡人だが、最初から高いところにいる人には梯子や階段など必要ないのだ。


仕方がないから住所欄には即席で考えたオリジナルの住所を記入したが、書き込まれるそれを覗き込んで、へえ、一戸建てにお住まいなんですか、これ駅からどのくらいの場所ですか、とやけに強靭に喰らいついて来るので、疑われているような気がして腹が立ち、張り倒してやろうかと思った。

電話番号も促されたが、そんなものを書いてやる筋合いが寸毫もないし、そもそも私はこれから昼を食べに行くところであり、そんな時間をわざわざ割いて付き合ってやっている聖人君子様に対して些か不遜な態度であるのが気に入らない。
私は良い顔に不信感が現われているであろうのを取り繕うこともなく、自分の電話番号であったような気がする数字を書き込んだ。そしたらあいつ、これ本当ですね、この番号ですね、後でこの番号にかけますからね、などと脅しのようなアフターサービスを押し付けてくるので、歯切れの悪い受け答えと愛想笑いで対抗した。

連絡手段は呉れてやったのでもういいだろうと思ったら、メールアドレスまでお強請りされる。
アドレスが漏れて迷惑メールが来ると迷惑だから、と理論武装して攻めて行ったら、わたしが漏らすと思うんですか、そんなことするわけないじゃないですか、と裸同然で反撃を仕掛けてきた。
貴方に一体何の信用があるというのか! そもそも漏らしたくない相手が貴方なんだよ!と心を打たれてしまったので、今はウイルスとかハッキングとかあるから、と白旗を上げて武装解除した。でも黙秘権を行使してアドレスの開示は断固拒否した。


相手も相当な不信感を抱いたであろうから、そろそろ放流されてしまうだろうと思ったが、今から私たちのサロンに来ませんか、と誘われる。
私は相当に良い顔をしているらしい。手放してはならない人財だと見抜かれたな。高い知性や教養を備えた尊い精神の持ち主であることを隠し通すのは、実に難しい。
ホームグラウンドで囲い込みをかけたいのが目に見ているので付き合う気はなかったが、サロンにはテレビに出ているスピリチュアルの人よりもっと凄いスピリチュアルの人がいるんですよ、と口説かれれてしまい心が揺れる。ははあ、そのお山の大将みたいなやつに私の指導を授けてほしいんだな。まあ、そこまで言うなら少し顔を出すくらいしてやろうかな。いざとなれば大暴れして走って逃げればいいし。
幾分乗り気になって来たところで、その集会所が電車で〇〇駅を降りたところにあると聴き、血の気が引いた。は、その電車賃って俺が出すのか? おいおいおいおい、こいつ頭がおかしーんじゃねーの。往復で300円はかかるじゃん。ふざけたこと言ってんじゃねーよ!
怒り心頭に発する余り、今からお昼御飯を食べに行く所だから、と冷たく突き放して別れた。1週間後に来てくださいね、と念を押される。 


後で基督教に焚き上げに該当する行為があっただろうかと考えたら、火炙りがあった。


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2014年03月20日

虚妄は現われる



本題に入る前に、もうひとつ。

文先生の教えに感銘を受けることで非難される若者達。
『学校から追い出され、家でも睨まれ、友達も離れていき、当然行く所がありませんでした。彼らは三角山に登って断食し、涙や鼻水を流してひたすら祈りに没頭しました。すると、あちこちから異言が起こってきました。もともと神様は、私たちが絶望の果てに立った時に姿を現します。学校を追放され、家族と社会から捨てられた学生たちは、三角山の祈祷所で神様と出会うようになりました。』

別の章から。
『極限状況で宣教する信徒たちは、ひときわ多く夢や幻想を通して啓示を受けました。』


これ、仏教で言うとことの魔境ではあるまいか。
この手の感覚について、私には心当たりがある。


私は15歳の夏、家を追い出された。
自転車に荷物を積んで当てもなく旅立った私は、その晩、小高い丘の上にある人気のない運動場の片隅の、公衆トイレに泊まった。誰かが立ち寄りそうになく、鍵のかかる無料の部屋であるのが理由だ。

新聞紙に包まって寝ようとしたが、疲れているのに寝つけない。
小高い場所が災いして、半袖シャツでは歯がガチガチ鳴るほど寒い。この時期、家では風があたらぬように扇風機をかけて寝るほどで、これほどの寒さは予想していなかった。
これから先の当てがなく、極度の不安で緊張もしていたのも寝つけない理由だっただろう。


外に停めてある自転車が心配になった。盗まれては困る。壊されても困る。
周囲に人の気配はないが、誰か来るかもしれない。

寒さで震えながら自転車を案じていると、やがて「誰か来たらどうしよう」という不安は、「誰かいるんじゃないか」という疑念へと変わっていった。
誰かいるような気がする。誰かが外を歩いているような気がする。誰かが運動場を歩いているような気がする……。
疑念は頭の中に段々と具体的な像を結んでゆき、最終的に、私には締め切ったトイレの床に横たわりながらも、運動場をぐるぐると歩いている背の高い男と低い男の二人組の姿が見えていた。
半醒半睡ながらも、この二人組が見えているのは夢だと当初は自覚できていたが、やがて感覚が曖昧になり、見ているものを疑わなくなった。あの二人が自転車に気付かないようにと祈った。二人の足音さえ聴こえた。


この時の感覚は夢とも現実とも違う特別なもので、以降経験したことはない。

私は自転車への危害を強く懸念していたからそれが具体的な姿で現われたが、もしも神仏のことを強く考えている人間だったら、神仏が現われたのではないだろうか。
私は自転車のことだから見たものを簡単に虚妄と断じることができるが、常識を超えた神秘を追い求めている人の前に虚妄の神仏が現われれば、それを真実と受け止めてしまう人もいるだろう。曖昧な内に譫言を漏らす人もいるだろう。


怖ろしくも何事もない一夜を明かした私は、その朝、気持ち良く自転車に乗っていたところを無過失で乗用車に撥ねられ、現われた救急車とパトカーによって家への帰還を余儀なくされた。
あの夜、車に撥ねられることを不安に思っていたら、私が見たものはきっと迫る車で、その後の事故で夜の虚妄を真実と……。

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2014年03月18日

平和を愛する世界人として



平和を愛する世界人として 文鮮明自叙伝  文鮮明 著  創芸社


これほどまでに「私はこんなに立派なのです」と主張してやまない本を、いまだかつて読んだことがない。
(一つには、韓国で発売された原著の日本語訳であることが要因ではないかと思う。つまり、文先生個人の気質が表れているというより、韓国人の気質に合わせた自己主張法として表れた文面なのではないか、日本のみでの発売を意図して書かれていたならば、日本人の気質に合わせ幾分控えめな主張法になるのではないか、ということである。仏国色恋映画が小難しいことをモニョモニョ言うとか、米国吹き替えドラマのアメリカンな感じとか、そのように型があるのだろう)


今日の私は文先生の伝道師となろう。
まずは立派さの羅列からスタートだ。
以下、『』内が本書からの引用、()内が私の添え書きである。


*
『少しでも観相の分かる人は、私の小さな目に宗教指導者の気質が現われていると言います』

子供時代
『誰とでも友達になる』『間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました』『行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした』『私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです』『動物を世話することにかけては並外れていました』『闘牋(賭博の一種)場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます』『そのお金を(近所の子供たちに分け与える水飴に使い、)絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした』『(自由にしていいお金で)かわいそうな子供たちに飴玉も飼買ってあげ、水飴も買ってあげました』『同じ年頃の子供たちよりはるかに体も大きく、力も強かった』『手先が器用だった』『どんな食べ物でもよく食べました』『神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました』『精神を統一し、集中して思念すれば、全部わかりました(観察による推測のようなものらしい)』『私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした』

ソウルに住んでいた若い頃、近所のおばさんが昼食をとらなかった文先生に食べ物を持って来てくれた。
『パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。
いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません』
全部で四銭にしかならない小さなことですが、忘れません。

日本留学時代
『私の歌声に魅了されて友人となった』


己の悪い点・過ちと認識して書かれた部分はこれくらいだった。
『私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。』
この「愚かな考え」について説明はない。


*
『一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。(中略。間違いだと分かっていても認めず、母に叩かれることもあった)ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした』


*
『私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした』
野原に牛をつないで暫く離れ、半日過ぎるころになると、牛は食べさせてくれる人を求めて鳴く。
『私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。』
嫌な理由は明確にされていない。牛の食事に付き合うのが退屈だったのか。



*
15歳の時、イエス様に出会う。

『祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現われました。風のように忽然と現れたイエス様は、
「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」
と語られたのです。(中略)
「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」
本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました。』



*
興南監獄(興南窒素肥料工場の特別労務者収容所)時代

四時半起床、囚人たちの身体検査に二時間、約四キロ歩いて工場へ。肥料の原料をすくい上げて袋詰めする作業。一日も休まず働く。監獄を出たのは二年五ヶ月後。
『食事は一日に小さな茶碗で二杯にならない配給しかありません。おかずはほとんどなく、スープは大根の葉の入った塩水がすべてでした』
しかし。
『どの囚人も重労働で疲労困憊して痩せこけていくのに、私は体重七十二キロをずっと維持して、囚人たちの羨望の的でした』

金日成主席と並んだ写真等を見ると、文先生の方が長身である。金主席が175cmらしいので、180cmはありそう。180cmで72kgだとプロサッカー選手の体である。乏しい食事と重労働でそんな質量保存の法則が成り立つのだろうかと無学な不安を感じてしまったが、神への愛を通じてシンクロン原理が作用して帳尻が合ったとかそんなところであろう。



*
『「韓国の地は今後、全世界で山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国人に生まれることができなかったことを悔しく思う時が来るでしょう」』
『「今後、イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして現われたように、肉身を持って韓国の地に来られます」』
読んでいて一番衝撃だったのがこれ。
私は今のところ悔しくありませんが……。
みんなはどうかな?


*
宣教のためには費用が掛かる。
『その費用は、当然自分たちの手で稼いだお金でなければなりませんでした。堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。
何かお金になることはないかと悩んでいたとき、切手が目に入ってきました。当時、私は信徒に一月に少なくとも三回は互いに手紙を出すよう勧めていました。手紙を出すには四十圜(ファン)の切手を貼る必要がありますが、一枚の切手を貼らずに、一圜切手を四十枚集めて貼るようにしました。そうやって一月に三回送った手紙に付いている切手を剥がして売ると、最初の年だけで百万圜くらい儲けることができました。何でもない古切手が大きなお金になることを経験した信徒たちは、それを七年間も続けました。』

これ、何をやったかわかりますか。
私なりに補足して説明すると、切手を貼って手紙を出すと、切手にかかるように消印が一度押されます。言わば、使用済みの印です。
普通は手紙1通に多くてもせいぜい3枚くらいしか切手を貼らないので、消印はどの切手にもかかるように押されますが、1通に40枚も貼ると、判子の面が切手の面積に及ばないために、消印を押されずに済む切手が大部分となり、届いた手紙から消印のかかっていない切手を剥がせば、それが未使用の切手と同様に使えるわけです。

切手の話はこれが全てで、一切の弁解や懺悔はなし。
この程度のズルは「何でもない」し、堂々と胸を張っていられますもんね。


*
反共産主義運動の展開で。
『国際共産主義者と連携した日本の赤軍派の反発は特に激しく、私がよく滞在していたボストンの修練所に侵入し、後に地元警察の検問に引っ掛かって摘発され、FBIに引き渡されたこともありました。』
今では名前を聞かなくなった勝共連合だが、現在も活動中。
http://www.ifvoc.org/index.html


*
『交叉祝福とは、宗教、国家、人種を超越して、男女が結婚で結ばれることを意味します。』
『最近も、八月十五日の光復節になると、「日本人が犯した罪を謝罪します」と言って頭を下げる、特別な日本人の姿がテレビニュースに登場します。自分が直接犯した罪ではないのに、先祖が犯した罪を代わりに謝罪するのです。彼らもやはり、十中八九、交叉祝福を通して国家の障壁を崩した私たちの教会の信徒です。彼らのおかげで、日本を怨讐のように思っていた私たちの心の壁を大きく崩すことができました。』
ああ、こういう背景があったのか。へえ。


*
『韓民族は、絶対に人の世話にはならないという独特な性格を持っています。私はアメリカで、韓国人の頑固な性格をあらためて感じることができました。アメリカはいろいろな社会保障制度が整えられている国ですが、韓国人はそのようなものに全く頼ろうとしていませんでした。国がくれる支援金に期待せず、何が何でも自分の手で稼いで子供を育て、両親の世話をしようとしました。そのくらい韓国人は自主性が強いのです。』
フーン。





まだまだ紹介したいところはあるのだが、(最初の結婚に関して自分が全く悪くないと主張しているところとか)、量があまりに多いのでこれまでとする。当然であるが、文先生や教会についての「悪い噂」について肯定する記述は全くない。各自ネットで調べよう。

本の帯には「600万部突破!」とあり、巻末に「2011年9月20日 増補版第1刷発行」「2013年11月23日 増補版第385刷発行」とある。
600万部といえば少年ジャンプの90年代黄金期(最高653万部)だ。


文先生が立派な人物であることはよく伝わっただろうし、君もそろそろ韓国に生まれなかったことを悔しがっている頃だろう。
さて、本題は文先生より私の方が立派な人物ではないか、ということである。君は驚いただろうが、私も驚いたのである。少なくともそのへんでチョロチョロしている信徒より立派であることは確認されてしまっていて、後日そのことを記述するための前置きとして、今回の事は書いた。


街頭で配られているポケットティッシュを受け取ったつもりが、よく見たらこの文庫本だった。780円。この気前の良さで近くジャンプの最高部数をも突破するだろう。



追記

600万部云々について。
私は国内での部数と思い込んでいたが、2010年に韓国100万部、国内80万部・2011年に日本国内で100万部突破、との記述を見つけたので、600万部は全世界での部数かもしれない。配布と販売を別に数えているかはわからず。


文鮮明師自叙伝のベストセラー(韓国100万部、国内80万部)を記念

自叙伝ベストセラー記念企画 作文・論文コンクール 2010年12月
 文鮮明師自叙伝のベストセラー(韓国100万部、国内80万部)を記念


自叙伝国内100万部突破記念 感想文コンクール
 2011年4月
 文鮮明師の自叙伝「平和を愛する世界人として」は、韓国に続き、日本においてもこの程100万部の売り上げを記録し、読者に深い感銘を与えています。


文鮮明師 自叙伝
http://sekaijin.jp/?page_id=80
読者の感想文が読めます。
自叙伝アプリも出ているぞ。


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2014年02月02日

現実的な神様


山で遭難した男の前に、神様が通りかかった。
神様は一抱えほどの雲の上に立ち、古びた衣を纏った老人であった。

「神様、どうか助けてください。何日も飲まず食わずで動けません。麓まで下してくださるか、麓の人々に私がここで遭難していることを伝えてください」
「確かに俺ァ神様だけど、何でもするわけじゃないよ」
「では、水と食べ物だけでもいただけませんか」
「うーん、まァ、いいよ。じゃあ釣ってくる」

神様を乗せた雲は、木々の間を縫うようにして音もなく飛んでいった。

雲は大海原の上で止まった。神様が立ったままで無表情になると、衣の中からちんちんがするすると伸びてゆき、雲を突き抜けて海の中へと垂れ下がった。
暫くすると、ちんちんがするすると縮んでゆき、先端を魚に咥えさせたまま衣の中へ戻って行った。神様がそこに手を入れて魚を掴みだし、バケツで海水を汲むと、雲は山に向けて飛び立った。

「ほい」
神様は男に向けて魚を放り投げると、そばに海水の入ったバケツを置いた。衰弱した男には跳ね回る魚を捕まえられないし、海水などとても飲めるものではない。
「申し訳ありませんが神様、どうか食べられるものと飲めるものを」
「あっ」
神様は左腕の時計を右手でトントンと示すと、
「相撲、はじまっちゃう」
そう言って、何処へかと飛んでいった。
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2013年12月24日

いただきます

少し前にネットで批判が盛り上がった宗教論のリンクを貼るが、貼るにあたって読み返したら頭の悪さに辟易したのでみんなはリンクを踏まなくていいです。


宗教的な感覚は持っているが、それは宗教ではなくて、単なる習慣としてやっているのだと考えている、その二枚舌。


西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
http://toyokeizai.net/articles/-/22709?page=2

あ、これ東洋経済の記事だったんだあ。なあんだ。ははは。
で、ネットで大いに批判された部分への批判に関してはネットでの大いなる批判に譲り、そこを読みたい人は各々検索してもらうとして。

私が看過できないのは、宗教(神仏)に対して日本人が蔑ろに出来ないのは、宗教を「感じている」からだ(それに対して西洋人は宗教を「信じている」)とだけ結論されていて、私は小林秀雄の定規の話を思い出さずにいられないんだが、宗教を蔑ろにしないのは、感じる・信じる・習慣・礼儀、そういうものだけではなく、「自分がどういう文化に属していたいのか・自分が属したい文化だから従う」という部分を無視してはならないと思う。
神社にお参りするのも、いただきますと手を合わせるのも、自分が何故それをするのかと考えてみると、私はこういう部分に行き着く。
これには先に挙げた4つと不可分な部分もあるが、同一ではない。


怪しげな儲け話に騙される人、都合のいい言説に裏付けもなく乗っかってしまう人などが絶えないのは、人間が自分の信じたいものを信じるからだと言えばわかりやすいだろうか。これと同根である。
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2009年11月23日

ソウルあげます

日本では現在、小沢氏がキリスト教は排他的・仏教は寛容と発言してキリスト教連合会から抗議を受けるも、発言を撤回しないと明言。
韓国では李明博大統領がソウル市長時代の2004年、宗教絡みですごいことを言っていた。


李明博市長「ソウルを神様に奉献」で物議

李明博(イ・ミョンバック)・ソウル市長がキリスト教の行事であいさつの言葉として「首都ソウルを神様に奉献する」と述べたことが、一歩遅れて分かり、議論が広がっている。インターネットのドケビニュースドットコムなどが2日伝えたところによると、李市長は今年5月30日、ソウル奨忠(チャンチュン)体育館で行われた「青年・学生の連合祈祷会」に出席「ソウルを神様に差し上げる奉献の言葉」を朗読した。

李市長は「ソウルは神様が治める偉大なる都市であり、ソウル市民は神様の民であり、ソウルの教会とキリスト人はソウルを守る霊的な番人であることを宣布する」とし「ソウルの回復と復興を夢見て祈るソウル・キリスト青年の気持ちと誠意を込めて、首都ソウルを神様に奉献する」と述べた。奉献のあいさつは「ソウル特別市長・李明博長老のほかソウルの復興を夢見て祈るソウル・キリスト青年一同」の名義になっている。

ソウル所望(ソマン)教会の長老である李市長は、普段、宗教活動に積極的に参加しているものとされる。こうした内容が伝えられた後、仏教と与党などで非難する声が広がっている。

大韓仏教・曹渓宗(チョゲジョン)中央信徒会などからなる宗教平和委員会は2日、声明を発表し「自身の所有ではないソウルを、自身が信じている絶対者に捧げる、というのは犯罪行為と変わらない」と非難し「李市長は、ソウルの市民と国民に謝罪し、再発の防止を約束するように」と求めた。これについて、ソウル市当局者は「個人的な宗教活動であるだけで、ソウル市長として是正すべき行為ではない」と話した。


中央日報 2004.07.02
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=53379&servcode=400§code=400

ソウル市ごと生贄に捧げるみたいだ。駄目だろう、ソウル市長として。
変わり者市長だったのかと思いきや、どうも根は深いようで……。


「浦項を基督教都市に」市長発言に曹渓宗が反発

仏教の曹渓宗(チョゲジョン)・宗教平和委員会(委員長ソン・アンシック曹渓宗中央信徒会副会長)は、8日「浦項市(ポハンシ)を『聖市』にしたい」という鄭章植(チョン・ジャンシック)浦項市長(浦項中央教会の長老)の発言に、深い懸念と遺憾の意を示す」とし、謝罪と再発防止を求める声明を発表した。

声明書は、また「浦項市予算の1%を特定宗教の財源にする」とした鄭市長の方針は、違法な公金流用も同然」だと主張した。鄭市長は「ソウル市をキリストの都市として奉献したい」という李明博(イ・ミョンバック)ソウル市長の7月の発言に先立ち、浦項体育館で行われた第1回聖市化運動世界大会(5月29日〜6月2日)で、大会名誉準備委員長として演説を行う際、浦項をキリスト教都市にしたい、と発言した。

鄭市長の発言以降、11月に「市予算の1%を宣教経費に使う」という要旨の文書が発覚し、波紋が広がった。浦項地域では「鄭市長の宗教偏向に対する浦項仏教対策委員会」が設けられ、15日に汎仏教徒集会を予定している。同委員会は、鄭市長に9日正午までの謝罪表明を求めている。


中央日報 2004.12.08
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=58444&servcode=400§code=400

韓国ではキリスト教が盛んだとは聞いていたけれど、こんな問題を起こすほどとは。


【社説】宗教間の不和が広がってはいけない

宗教差別を理由に聖職者と信徒たちが大々的な反政府デモを行うという。ソウル広場で今日開かれる「憲法破壊・宗教差別李明博政府糾弾汎仏教徒大会」だ。曹渓宗だけではなく天台宗、太古宗なども共に参加する過去最大規模の行事だ。

仏教界がここまでするにはそれだけの理由がある。政府は発足時から所望(ソマン)教会の人脈を重視し「コソヨン内閣」(高麗=コリョ=大学卒で、所望=ソマン=教会に通い、嶺南=ヨンナム=地方出身のそれぞれの頭文字をとってコソヨン)といわれた。

青瓦台元警護処次長は「すべての政府部処の福音化が私の夢」と発言した。金聖二(キム・ソンイ)保健福祉家族部長官は「信仰心が足りず、社会福祉政策がうまくできなかった」と述べた。また浦項市をキリスト教都市にするのに予算1%を使うとした浦項は央公務員教育院長に任命された。全国警察福音化断食大聖会広報ポスターに魚清秀(オ・チョンス)警察庁長官警察庁長官の顔写真がチョ・ヨンギ汝矣島巡福音教会牧師と並んで写った。

国土海洋部の「交通情報システム」、教育科学技術部の「教育地理情報システム」に教会と聖堂は入っているのに、寺はなかったこと、曹渓寺入口で警察が曹渓宗総務院長であるチグァン僧侶の乗用車の中とトランクを検閲したことなど、新政府がキリスト教をひいきして、仏教を差別したという誤解を呼ぶだけのことが続いて来たのだ。
(以下略)

中央日報 2008.08.27
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=103927&servcode=100§code=110

コリョ+ソマン+ヨンナム=コソヨン
田原+野村+近藤=たのきんトリオ
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2008年09月22日

今週の仏教

死刑制度:廃止求め、真宗大谷派が声明−−今月3人の執行受け /京都

 今月11日に大阪、東京両拘置所で3人の死刑が執行されたのを受け、真宗大谷派(下京区、本山・東本願寺)は遺憾の意を表明すると同時に、死刑の執行停止と廃止を求める声明を発表した。

 「私たちは、どのような罪を犯した人間でも排除せず、かけがえのない命として尊重して共に生き合える世界を、阿弥陀如来の本願として教えられている」としたうえで「死刑執行を続けることは、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助ける責任を放棄し、共に生きる世界を奪うもの」と指摘。「加害者の悔悟や反省が成し遂げられることも、被害者遺族の悲しみや怒りが癒やされることも、死刑制度を持つ社会では困難」としている。【木下武】

毎日新聞 2008年9月18日 地方版
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080918ddlk26040653000c.html


仏教では安らかに死を受けとめることを教えていますが、一般に言われるように、安らかな死を迎えることを説いてはいません。死の縁は無量だと教えられます。つまり、極端な言い方をすれば、平穏に生き、平穏に死を迎えたいと思っていても、家庭をはじめとする人間関係で悪戦苦闘して死に追いやられることもあるかもしれません。身心共に七転八倒して死に至ることもないとはいえません。もちろん、安らかに眠るが如くに死ぬということもあるでしょう。
 だからして、教えを聞けば穏やかに死ぬことができるであろうというのは、いってみれば自分の理想を教えにゆだねようとする想いにすぎないとも言えます。仏教は理想を実現する教えではありません。現実を現実として受けてゆく自立をうながす教えです。

真宗大谷派大阪教区公式サイト 銀杏通信
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_185.htm



















おやおや、お坊さんかと思ったらマルコビッチだゾ!
これはもう買うっきゃない!
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2008年04月20日

スケールの大きい俵万智

米ニューヨーク州が4月5日「池田大作の日」を宣言
 アメリカ・ニューヨーク州が、4月5日を「ダイサク・イケダ・デー(池田大作の日)」と宣言した。アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のニューヨーク総会が同日(現地時間)、ニューヨーク市のアポロ劇場で開催され、席上、デイビッド・パターソン州知事が署名した宣言書が、代理のデイビッド・ジョンソン州知事上級顧問から授与された。

http://www.seikyonet.jp/sg/sp/shimen/headline/index/1208478253926/0


ほかにどんな人物の日があるのだろうか。これはどういうランクの記念日なんだろうか。日本でいうと耳の日くらいではないか、と根拠も無く瞬間的に思ってしまった。
宗教に不案内な私は、先に日蓮の日、さらにはブッダの日をつくったらどうかと思うのだが、既にあるのでしょうか、ニチレン・デー、ブッダ・デー。釈迦十代弟子のデーは一日に纏めるのか、十日にわけるのか、それならば飛び飛びか、連続か。信仰は奥深い。

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2006年07月23日

パワード久川綾

1 名前: 素人童貞φ ★ [sage] 投稿日: 2006/07/21(金) 23:12:41 ID:???0
もはや週刊誌の一大コンテンツとなった観のある、「タレント創価学会員」ネタ。
タレント学会員事情通の学会メンバー3人が、赤裸々に語る。

C「折伏(勧誘活動)するには“時(タイミング)”というものがありますよね。日蓮
大聖人も、そうおっしゃってるし。番組共演者を手当たり次第勤行(朝晩行う読経)
に誘う久本雅美をはじめ、猫ひろしや柴田理恵なんかは、いかがなものかと
思いますよ」
B「最近、三船美佳、ふかわりょう、長井秀和なんかの学会メンバーで固めている、
露骨なバラエティ番組の特番もあるしな」

B「そういえば一時期、久本がSMAPの中居に勤行を教えていたという噂が流れて
いたけど、実際のところどうなんだろう?」
A「中居が恋人を妊娠させたとかいうスキャンダルが出たときに、久本に相談して、
2〜3日勤行したともっぱらだ。草箸砲眩Δ瓩討い燭箸いο辰發△襦ラ
B「だけどジャニーズ事務所に発覚して、中居は勤行やめたらしい」

B「かつて岸本佳世子はビートたけしをかなり折伏していたらしいね。学会員の間
では、たけしがバイクで飲酒事故を起こしたのは『つまみ枝豆と岸本の熱心な折伏
をたけしがなじった』ため、バチが当たったと囁かれているけど」
A「あれは本当かね? 確かに変な事故だったけど。でも、あの時のたけしは死生観
が揺れていたから、勧誘するにはチャンスだったんだけどな」

ソース
「サイゾー」8月号
〈創価学会〉「現役創価学会員が赤裸々に語る、久本雅美ら組織の前進を阻む
有名学会員の功罪」より抜粋



思い立ったが吉日という言葉もあります。
勇気はあるか、希望はあるか、信じる心に!
先生の為に戦うのなら、今がその時だ!




手当たり次第なんて 本当は そんなのありはしないのだ
折伏にせよ 思った時が きっとふさわしい時

チッポケな額だした財務じゃ 自分がとてもチッポケな奴
毎日 勤行つきとおすなら それで健康になる

泣かないで 久本よ 何もかも うまくゆく
泣かないで 柴田理恵 どうにかなるようになる

あきらめきれぬ折伏ならば あきらめきれぬとあきらめる
あきらめきれぬ折伏ならば それはきっといい事だ

御題目 唱えたら 何もかも うまくゆく
学会を 辞めたなら 堕地獄の仏罰下る



geijutusyouri.jpg
 
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2006年07月04日

「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」「お前が信用ならねー」

買い物帰りに公園を通りがかると、前から日本人と白人の二人組が歩いてくる。
私はイヤホンで音楽を聴きながら芝生に沿った道を歩いている。顔をあげて歩いているから自然と二人組が視界に入る。白人が何か声をかけてきた。何が起こるか薄薄わかっていたが、無視をするのも心地が悪いのでイヤホンを外してしまったところで案の定やっぱりそれみたことか。三人とも立ち話でスタート。

最初は、ちょっとお時間ありますか、とか何とか言われたんだと思う。時間は十分あったし、私は人と接するのが少し苦手なので、度胸を付ける意味でも話を聴いてみることにした。私には信仰心がないものの、信仰を持った人の物事の考え方には興味がある。
彼等はキリスト系教団(統一教会じゃないよ)の宣教師(ザビエルカットじゃなかった)で、白人が「私たちの話を聴いたことがありますか」と言う。一年位前にもこの公園で聴いたことがある。
この二人、話すのは専ら白人で、日本人の方は監督らしく、白人の流暢ではない日本語にいちいちうんうんと頷いていた。二人は最後まで笑顔を絶やさなかったが、意識的な笑顔だろう。
話の内容をしっかりとは覚えていないけれど、話の内容が変だったのは覚えている。

家族の中で父親はどうして必要だと思いますか、と問われた。
考えたこともないので困る。だって、生まれたときから傍に居たのだもの、必要不必要で父親の有無を決めているわけではない。それに父親がいないとどうだというのだろう。考えたこともないと率直に答えると、白人は、血縁の父親は物質的なものを与えてくれるけれど、父たる神は精神的なこと――平穏や幸福――を与えてくれるとかなんとか言う。変だと思う。私はこれでも父の言葉や姿から、精神的なものを色々学んだつもりである。平穏も幸福もその逆だって戴いたことがある。金と物だけしか与えなかったような父ではない。そりゃああんたらの神が与えてくれる信仰の見返りに比べたらチンケなものなんだろうけれど、父の精神、ひいてはそれを受け継いだ私の精神までまったく無価値のように言ってのけてくれる口の聞き方なんぞ神様から与えてほしくない。

白人の彼はまだ日本語が上手ではないから話をちゃんと伝えられなかったんだよ、なんてことはない。すぐ傍に監督の日本人が突っ立っているのだ。話し方に不備があれば補足すればよいだろう。しないということ、彼等が宣教師であるということは、この話が教団として公式なものであると受け取ってかまわないと私は思う。

あなたは神の存在をどう考えていますか、神の与えた幸福を感じますか、というようなことを問われた。
私は多神教の考え方をしていて、色んな物に神が宿っていると思う、神といっても全知全能のゴッドではなく、スピリチュアルな意味での神だ、それを信じている、というより、漠然とそう考えている。
幸福は、自分で掴んだものか神が与えたものか判別がつかないので、特に神のものと感じない。
正直にだいたいこのようなことを答えた。もっと細かく言いたいこともあったが、面倒なのと私の会話能力の低さで端折った。このあと白人がへまをやらかす。
私の答えの後、白人は簡単な相槌のように私の言葉の一部を複唱したのだが、「ボクゼンと……」とはっきり言ったのである。私は「漠然」だと指摘した。彼は「バクゼン」と言い直し、神の計画がどうたらこうたらと話を始めたので、ふつふつと沸き上がっていた不信感は一気にヒートアップした。不信感ゲージが満タンになると笑顔が嘲笑しているように見える。
私は喋っているとき、この人はまだ日本語が流暢じゃないからわかるかな、と疑問に思いつつ漠然という言葉を使ったのである。彼は漠然をボクゼンと言った。漠然という単語を知らなかったのである。漠然というのは書家の……、それは莫山。
単語を知らないということは、その意味を知らないということである。意味がわからないということは私の話がわかっていないということである。言葉の意味を質問しないのは、私の話をわかろうとしていないということである。私の話なんか聴いちゃいないということである。もっとも、話の大部分は理解できたのだろうけど、自分から話しかけておいて、相手の話のわかっていないところを放っておいて自分の話をすすめるなど、人を馬鹿にしている。話がわかっていないことなど気付いていないだろうという心理も窺えて、ますますもって馬鹿にしている。
そして隣に黙って突っ立ってにこり(にこにこ、ではない。動感のない笑顔)としている日本人は薄ら馬鹿である。
薄ら馬鹿、その根拠とは、

ひとつ、こいつも私の話がわかっていない。だから白人に漠然の意味を説明しない。そして自分も私に質問して理解しようとしない。
ひとつ、こいつは話がわかっているが、白人がわかっていないことに気付いていない。
ひとつ、こいつは話がわかっていて、白人がわかっていないことに気付いているが、どうでもいい話だと思っているので白人に理解させない。
ひとつ、こいつは話がわかっていて、白人がわかっていないことに気付いているが、どうでもいい話だと思っているので白人に理解させない。そして私がそれを見抜くわけがないと思っている。
ひとつ、話を何も聴いちゃいなかった。

この考えうる五パターンのうち、どれをとっても馬鹿が成立するため私は彼を薄ら馬鹿と判断した。馬鹿に薄らがついているのは、語感がよかったから。

私は取りあえず彼等の言葉を黙って聴いていた。やがて、私は簡単に神の話をすることができるからその話を聴かないかといわれた。
そんなに深入りしていいものかと思いつつも、ブログのネタになりそうなので困った。
いつ、どこで、どのくらいの時間かと問うと、いつでもいいと言う。10分でも5分でもいいと言う。うーん。日本人が場所はそこの芝生に座ってでもいいと言う。渋っていた私だが質問したいこともあったし、話を聴くだけならと思い、じゃあ今から10分くらい、と言うと、白人は腕時計を見ながら、これから用事があるので今はちょっと……と言い出した。なんだそれ。5分で出来るんだろ。用事があるって、声かけてきたのはそっちじゃないか。ここの芝生の上でいいと言った薄ら馬鹿は黙ってにこりとしている。おい。

本当に用事があるなら、日本人の薄ら馬鹿が今すぐここでもかまわない、というニュアンスのこと(そこの芝生に座ってでもいい)を言うはずがない。それに本当ならば、用事があるので、と白人が言った後に日本人は何か言うはずである。ああそうだった、とか何か。それが普通の会話であり、用事というのが嘘ならば、それでも、ああ、そうだった、とか何とか芝居をすべきである。それが黙ってにこりとしている。
最低限困った顔くらいしろ。にこりとしているのは、用事を忘れていていたにしろ嘘を点いていたにしろ、何も悪びれてちゃいないということだ。
何にしろ、まともな遣り取りができないし、それをちっとも恥じていない。そんな相手にこちらの言葉がちゃんと伝わるはずはない。漠然で既にわかっていたことだが、彼等は私と会話をしようとしているのではなく、自分のペースにのせたいだけでなのだ。
最初からどこかへ連れ込む気があって、安心感を引き出すためにいつでもいいなどと言ったのだろう。
私の不信感は二度目のピークを迎えた。

白人がいつなら時間がありますかと訊いてきた。馬鹿野郎。なんで私が今ここで話につきあったと思ってやがるんだ。
ここは大きい公園で見通しもよく、近くに人が大勢いて、最悪の事態を免れられるからこそ話を聞いている。これがちゃんとセッティングした場所なら、逃げられないような相手の陣地で宣教師が何人やってきて私一人を囲むのかわかったものじゃない。時間はいつでもいい、場所はここでいいと言っておきながら、そっちの用意した時間と場所でないと駄目だなんてあやしすぎるし、漠然の件でとっくに不愉快なので、そっちの都合にそこまで合わせるつもりもない。今度はいつ時間がとれるかわからないので、約束が出来ない。と断った。
その後、名前を教えてくれとか連絡先を教えてくれとかぐだぐだした話が続いて、神の話を聞かないかのお誘いから5分は経過していた。できたじゃねーか、神の話。やっぱ信用ならねー。
にこりと笑った顔も、神を信仰しない憐れな民を蔑む嘲笑にしか見えないし。
こんなボンクラを人前に出してる時点でここの組織の底が知れる。
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