2016年05月22日

新・餓狼伝 巻ノ三


新・餓狼伝 巻ノ三 武神伝説編 夢枕獏

狂った獣たちがギチギチミチミチと骨肉を軋ませ
爆ぜる血と汗にこれまでのすべてとこれからのすべてを用いて
打ち、突き、蹴り、投げ、極め、絞め、折り・・・・・・。

そういうやつなんである。私が読みたいのは。

餓狼伝は、血沸き肉踊り声を上げたくなるような格闘小説だった頃が確かに実在したのを私は確認しているのだが、今回は、まったくそんな熱量ない失望で期待との高低差がやや危ない。
30年以上に渡るシリーズのなかで、こんなにもまともに闘っていない一冊があっただろうか。私は旧シリーズを合本で読んじゃっているのでそのこところは知らぬ。


象山と露風が数人のやくざ相手に殴り込みをかけたところで、そんなものは獣同士の立合いには程遠く、露風主宰のわくわくゲーム大会なんて余興にもならぬ。
新人も新技も、もういらぬ。今あるカードのカタをつけてください。


次巻は大丈夫だよね、とまだ期待はしているが、キマイラ最新刊もレビューを読むと妙なことになっているようで・・・・・・。

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2015年05月29日

ちくま日本文学 江戸川乱歩

前に古本屋で乱歩の随筆を見かけ、少し読んで本棚に戻した。お金が無かったのである。
その場では諦めたが後で気になり、暫く経ってから探してみるも、乱歩の本とか憶えておらず、見つけられなかった。

それを数年ぶりに偶然見つけ、相変わらずお金は無いのだが買ってしまった。『ちくま日本文学 江戸川乱歩』である。
ページの七割は代表的な小説、三割で随筆を載せている。

前に私が読んだ部分は「映画の恐怖」
乱歩が説く映画の恐怖は『暗黒星』(本書には収録されていない)の冒頭にも繋がる内容で、作品理解の意味でも興味深い。


だが、本書で一番面白いのは「乱歩打明け話」だ。
この難解な題名を現代語訳すると「乱歩BL話」である。

乱歩が小説家に至るまでの半生を語った内容になるはずが、少年時代に付き合った初恋相手の話で殆ど終わってしまう。
これがまるで小説のような話なのだ。
美少年十五歳乱歩と美少年同級生との間の、あまりに美しい恋物語なのである。
しかも、乱歩読者なら感慨を催さずにはいられないような
結末で・・・・・・。



乱歩は同性愛を畸形的怪奇的趣味の一種として作品に用いているのかと思っていたが、大間違いであった。
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2014年11月16日

真景累ヶ淵


真景累ヶ淵  三遊亭円朝   岩波文庫

背表紙を見かけた際、村上春樹が一番面白い小説として挙げていた、と志ん輔が言っていたのを思い出したので読んでみた。落語で聴いたことはない。
しっかり文庫一冊分の噺。連続テレビドラマのように、これを何日にも分けて高座にかけたのだ。最近では歌丸がこの噺をやっていた。

これは、もともとあった噺に円朝が創作した続編で、因果の廻る怪談噺である。文明開化の世の中で、幽霊なんてものは神経の病で参っているから見るもんだという風潮があり、幽霊=神経=真景、と題名がつけられた。

本書は高座を速記したもので、やまと新聞に連載された。どこかで見たことのある名前だと思ったら、月岡芳年を使っていた新聞だ。




やっぱり村上春樹は合わないなと思いました。
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2014年08月12日

ウォー・ゲーム


ウォー・ゲーム  フィリップ・K・ディック短編集2
仁賀克雄 訳

1冊くらいは読んでおかなければ、と思っていたディック。まずは軽そうなものを、と選んだ短編集。
15年くらい前に買って、最近漸く読んだ。

硬いSFという先入観があったので、「パットへの贈り物」のユーモアが意外。高次元存在が下位次元に降りて神となる展開も気にいった。
「探検隊はおれたちだ」 最後に明かされる事実による哀しみ、明かされない真相による余韻で、本書の中では一番好きだ。

何度か放射能という単語が出てくるが、文脈からすると誤用(「大気からの放射能が内部に入り込む」「放射能の溜まり」)で、そこは正確に放射線や放射性物質と訳して頂きたかった。SFなんだからさあ。


(結構、フィクションに於いても用語を正しく用いることが社会全体の科学的知識や理解の基礎に貢献するんではないかと思う。

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2014年08月08日

夏休み特別読み物 児童文学「ゲオルグの魔法」


 ゲオルグの魔法    平塚義信




あの森には結界で隠された一軒の家があり魔法使いが棲んでいると、数百年前から言い伝えられてきた。
今では信じる者も少ない。特に若者は。
しかし、悪戯少年のゲオルグは信じた。だって、見つけたのだから。その家を。


滅多に立ち入る者のない森の中で、ゲオルグはよく悪巧みを練っていた。
昨日、鍋料理を作っているおばさんを玄関に呼び寄せた隙に、裏口から台所に忍び込んで鍋にカエルを入れてやったのは、おばさんの悲鳴と相まって傑作であった。次は何をしようか。近所にレストランが出来ていたな、あそこに何か仕掛けてやろう。
その日もそんなことを考えながら歩いていると、木々の間に古めかしい扉が見えた。
おかしい。何度も来ているが、こんなものは見たことがない。誰かが捨てたのか。いや、そういう雰囲気ではない。立て掛けられているわけでもなく、そこに家があるような……。
ゲオルグは言い伝えを思い出した。これがあの魔法使いの家ではないか。あまりに長い年月を経て、結界に綻びが出来て一部が見えているのではないか。

静かに近づいてみる。扉の縁には靄がかかって、断面が判然としない。裏に回ると、靄で覆われ扉は見えない。
周辺を窺うと同じような窓があった。覗いてみると、扉近くの机と椅子、その椅子に腰かけたまま、こっくりこっくりと居眠りをしている老人が目に入った。これが言い伝えにある魔法使いであろう。他には竃、寝台、箪笥。奥には本がきっしり詰まった棚。粗末な家である。
もしも魔法使いが目覚めて、結界の綻びに気付いたら。家は再び隠されて、もう二度とゲオルグが目にすることはないだろう。だから、何をすべきかは決まっていた。忍び込んで、何かを盗んでくるのだ。例えば、本とか。今これ以上面白いことなどない。

予想通り、扉はあっさり開いた。誰にも見つからない家なのだから、わざわざ鍵を掛ける必要は無いのだ。
周囲を見渡しながらゆっくり歩いて、魔法使いの傍を通り抜ける。窓の外から覗いた通り、粗末な家でこっそり盗めるようなものは本しかない。箪笥や机の引き出しも気になるが、中を検めている時間はない。すぐに盗めるものがいい。
棚の前まで来たが、どれも怪しげながら何の本なのかわからない。手元の一冊を取り出そうとしたが、ぎっちり詰まっているので、力が要る。音をたてぬよう、静かに力を込めて引き抜く。ゆっくり、ゆっくり……。
異様な気配を感じ取ったのか、魔法使いが目を覚ました。「これ、何をしておる」 
その瞬間、ゲオルグは遠慮なく力を込めて本を引き抜くと、魔法使いに目も呉れず扉まで走り抜け、家から転がり出ると、森の外まで一気に逃げた。

何も追いかけてくる様子はない。ゲオルグは呼吸を整えながら急いで本を捲る。それが魔導書であることは、表紙に描かれた複雑で恐ろしげな魔法陣を見てすぐにわかった。手書きである。あの魔法使いが記したのであろう。
古い言葉遣いや知らない言葉に躓きながら読んでみると、しょうゆとソースの味を入れ替える魔法を記した本であることは理解できた。大した魔法ではない。
しかし、ゲオルグは喜んだ。大した魔法を記した本ならば、きっと自分には扱えず宝の持ち腐れだ。しかし、大した魔法ではないからこそ扱える可能性がある。
それから暫く、ゲオルグはぴったりと悪戯をやめて家に籠った。

勿論、改心したわけではない。良からぬことに用いるため、こっそりと魔法の習得に励んでいたのである。
そして到頭、魔法を己の物とした。表紙が上になるように魔導書を置いてその上に座り、呪文を唱え、しょうゆに手をかざすと、それはソース味に、ソースに手をかざすと、それはしょうゆ味になったのだ。

ゲオルグは十分に腹を空かせると、客の多い時間を狙ってレストランに赴いた。


ゲオルグはソースかつ丼と鰤の照り焼きを注文した。待っている間、人目につかぬよう、魔導書を尻の下に置く。
注文の品が届いた。ゲオルグは小声で呪文を唱えると、ソースかつ丼と鰤の照り焼きに手をかざす。それぞれを味見すると、果たしてソースとしょうゆの味は入れ替わっていた。
ゲオルグは大声で料理長を呼ぶ。周囲の耳目が集まる。何事かとやってきた料理長にゲオルグは料理の失敗を言い立てた。
「おお、なんたることか。所望したソースかつ丼はソースならぬしょうゆかつ丼であった。我が舌と臓腑はびっくりして腰をぬかした。更には鰤の照り焼きにしょうゆではなくソースを使っておるな。我が舌と臓腑は二度目のびっくりで機能不全寸前である。やい、金返せ。そして詫びとして最高級黒毛和牛フルコースを食わせよ。病院代とタクシー代も出せ。誠意を見せよ。ほれ、早う出せ」
これがゲオルグの狙いだった。衆目が多ければレストラン側は誤魔化したり無茶な追い出したりはしづらく、要求を飲むだろう。他の客にも味見して貰えば、ますますレストランは肩身が狭くなり、下手に出て多くの要求を飲むだろう。そして、ゲオルグの腹とポケットはパンパンになるのだ。

他の客がどよめく。ゲオルグと同じ注文をしていた客は、まじまじと料理を見つめている。
料理長は驚き「そんなはずは……」と絶句した。
ゲオルグは笑いを押し殺した不機嫌な顔で、「では、味見してみよ」と料理を押しやった。
料理長は強張った顔で「では、味を検めてみましょう」とソースかつ丼を一口食べ、不審な顔をすると二口、三口と食べた。鰤の照り焼きも同様にすると、「お客様、どちらも味付けは間違っておりません」と述べた。
もしや、魔法が切れたのか。ゲオルグは慌ててもう一度食べてみた。すると、ちゃんと味は入れ替わっている。では、料理長がしらばっくれているのか。しかし、一連の態度が演技とも思えない。
テーブルの周りには他の客が集まって来て、事態の推移を見守っている。料理長が「他のお客様にも味見して頂きましょう」と周囲に味見を勧めた。次々と手を出す客。拍子抜けしたような顔、やっぱりという顔、様々な顔で食べる客たちであったが、意見は一致した。味に異常はないと言うのである。
ゲオルグは魔法の本当の効果に気付いて、顔面蒼白となった。この魔法は、魔法を使った者の味覚を変える効果しか無いのだ。そもそも何のための魔法なんだ、これは!
冷ややかに怒りを湛えた料理長の顔、軽蔑と嫌悪を示す客たちの顔。誰もが、理不尽な言い掛かりで金品を脅し取ろうとする憎むべき悪党を見る顔をしている。
皆に囲まれていたゲオルグは逃げ出すことも出来ず……。



魔法使いは数日かけて結界を新しくすると、椅子に腰かけて一息ついた。あの魔導書が盗まれたのは残念だった。記していたのは大した魔法ではなかったが、目玉焼きを食べる時にあれがあると、一つで二つの味が楽しめたのだ。もう一度魔力を込めてあの複雑な魔法陣を描くのは骨が折れる。
「まあ、しょうゆとソースを別々にかければよいわ。毎日食べるわけじゃないし……」
魔法使いはそう呟いて、またこっくりこっくりと居眠りを始めた。






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2014年06月11日

14/06/09


呉・宮崎の仏教話が面白かったので、他にも仏教の本を読みたい。
本屋で何冊か立ち読みしてみたところ、私が面白く思う仏教の話は仏教の内側にいる人々によるものではなく、在俗・門外漢による仏教の分析的なものであるらしい。
完全に仏教の内側に入っている人の話は仏教で完結してしまい、要は内輪話であり外にいる私は入っていけない。外から内を覗こうとする人より、内側へ居ついてしまった人のほうが、外から内への入り口作りは難しいのではないか。

あと、坊主ってのは所詮修行中の身なんだからあんまりわかったような事言っている奴は怪しい、と私は思っている。


立ち読みした中に小池龍之介がある。まだ若いのに何冊も本を出していて、よく表紙に自分の写真を使っている。私の経験則からいって、こういう人物は信用ならんのであるが、本当に信用ならん話が書いてあって良かった。

その部分を記憶を頼りに要約すると、こんなの。
 * *
何年か前、家出カフェというのを開いた。坊主がカフェのマスターをやって、客の話を聞き、坊主としてその話に応じる。話は往々にして人生相談的なものに及ぶ。そういうやつ。
カフェを開くにあたって、なんか変わったことをやっている奴だと思われたい下心があったのではないか。
自分の関わりで相手を変えることに快感があり、3時間も1人の相手をして話が解決しないと「3時間も話したのに」と腹が立ったりした。
 * *

こういうのテレビでみたことあるぞ。この家出カフェとは違うかもしれないが、同じタイプの坊主がやってる店。
何年も前に夜のニュース番組で、珍しいモノとして無批判にちょこっと紹介されていた。「大丈夫かよ、こんなの。変わったことがやりたい生半可な坊主なんじゃないの」って当時思ったんだよ。その解答のひとつが、今。
坊主が相手すると聞いてホイホイ行って有難がるのは、やはり間違いですよ。坊主は坊主の形式に則った形をしていれば坊主なのであって、立派な見識があるかは別。


この本には小池の、坊主として落ち着く、或いは有名になるまでの半生が明かされている。他人から構ってもらいたいあまりに、子供の頃からみっともなく奇行を演じていた。そのみっともなさたるや、かなり酷い。人間の屑と評されても意外性はない。
私だってみっともないバカだが、ここまでバカな人間ではない。性根で同レベルだとしても、ここまでの実績は無い。バカとして劣る。
「ここまでのバカが立ち直れた手法だからこそ、それより幾らか軽度のバカにも効く」という論も立つけれど、私には「ここまでのバカに使った手法が、ここまでのバカではない私に有効だろうか」という疑念が強い。
ものすごく曲がったものを直す方法は、それとは違った方向へものすごく曲げる方法でもある。
そして、本当にそれで直っているかどうかがまた別の問題である。私は小池について知らないので(知ろうとも思わないので)、直り具合を知らない。

私は小池の本を数冊、何ページか立ち読みしただけである。
もしかしたら小池は立派な坊主になったのかもしれない。しかし、かつて中身の伴わない坊主としてカフェをやっていた話は、小池個人を批判する意味ではなく、外面で思い込んではいけないという常識を再確認する意味で良い話だった。



おかねがないので本を買うのは我慢した。宮崎の対談本なんか、入り口として面白そうなんだけど。
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2014年06月08日

将軍の秘密



「ミリンダ王の問い」で車を部品に還元して其々が車であるかどうかを問うていたが、これで思いだした小説がある。

海外の怪談・奇談の類を集めた本で読んだ。
異なる本で二回は読んだので、それなりに有名であるはずだが、題名も作者も忘れてしまい、ネットでは見つけられなかった。
 * * *

戦場で大きな功績を挙げ、国民的な英雄になった将軍がいる。
しかし、彼の私生活については国民に秘されている。

ある男が偶然にも将軍の部屋を窓から覗き見てしまう。将軍は椅子に腰かけていて、メイドと二人きりだ。
メイドは慣れた手つきで将軍から腕を取り外し、テーブルの上に置いた。義手だったのである。足を取り外し、テーブルの上に置いた。義足だったのである。

そうか、これが将軍の秘密だったのか。将軍の身体について、国民は何も知らされていなかった。
士気に影響するから、隠していたのだろう。
男が納得しながら見つめる先で、将軍からは義眼が、入れ歯が、あらゆる体の一部が取り外されて、最後、椅子の上には何も残っていなかった。

 * * *

ざっとこんな話である。何という作品なのか知りたい。
(士気に影響するなんて記述が本当にあったか記憶は心許ないのだが、このあたり「ジョニーは戦場に行った」だなあ)





他にも題名と作者を忘れてしまった作品が幾つかあるのだが、この将軍について調べているうちに、「美食倶楽部」谷崎潤一郎、「頭蓋骨に描かれた絵」マッシモ・ボンテンペルリが判明する収穫があった。
http://www.chikumashobo.co.jp/special/bungakunomori/


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2014年04月28日

中島敦 ちくま日本文学全集


中島敦 ちくま日本文学全集  筑摩書房


買う前から薄々感づいていたが、読んでいてよくわかった。これ実家にあるやつだ。即ち手元にはないわけだが、しくじった印象はぬぐえない。
収録作品数は少ないが、角川文庫の中島本が手元にある。


並行して読んでいた『知的唯仏論』で、宮崎哲弥がミリンダ王の車の問いを紹介している。
wikipedia

中島敦には、ミリンダ王の車の問いを連想させる箇所が幾つかある。
ミリンダ王の問い自体は知らなかったのだろう。知っていたら、どんな影響を受けただろうか。



 俺といふものは、俺が考へてゐる程、俺ではない。俺の代りに習慣や環境やが行動してゐるのだ。之に、遺傳とか、人類といふ生物の一般的習性とかいふことを考へると、俺といふ特殊なものはなくなつて了ひさうだ。之は云ふ迄もないことなのだが、しかし普通沒我的に行動する場合、こんな事を意識してゐる者は無い。所が私のやうに、全力を傾注する仕事を有もたない人間には、この事が何時も意識されて仕方がない。しまひには何が何やら解らなくなつて來る。

 俺といふものは、俺を組立てゝゐる物質的な要素(諸道具立)と、それをあやつるあるものとで出來上つてゐる器械人形のやうに考へられて仕方がない。この間、欠伸をしかけて、ふと、この動作も、俺のあやつり手の操作のやうに感じ、ギヨツとして伸ばしかけた手を下した。
 一月程前、自分の體内の諸器關の一つ一つに就いて、(身體模型圖や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、濕り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。以前だつて斯ういふ經驗が無いわけではなかつたが、それは併し、いはゞ、内臟一般、胃一般、腸一般を自分の身體のあるべき場所に想像して見たゞけであつて、頗る抽象的な想像の仕方だつた。しかし此の時は、何といふか、直接に、私といふ個人を形成してゐる・私の胃、私の腸、私の肺(いはゞ、個性をもつた其等の器關)を、はつきりと其の色、潤ひ、觸感を以て、その働いてゐる姿のまゝに考へて見た。(灰色のぶよ/\と弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプなど。)それも今迄になく、かなり長い間――殆ど半日――續けた。すると、私といふ人間の肉體を組立ててゐる各部分に注意が行き亙るにつれ、次第に、私といふ人間の所在が判らなくなつて來た。俺は一體何處にある? 之は何も、私が大腦の生理に詳しくないから、又、自意識に就いての考察を知らないから、こんな幼稚な疑問が出て來た譯ではなからう。もつと遙かに肉體的な(全身的な)疑惑なのだ。
 その日以來こんな想像に耽るやうになり、それが癖になつて、何かに紛れてゐる時のほかは、自分の體内の器關共の存在を生々しく意識するやうになつて來た。どうも不健康な習慣だと思ふが、どうにもならない。一體、醫者は斯ういふ經驗を有つだらうか? 彼等は自分達の肉體に就いても、患者等のそれと同樣に考へてゐるだけであつて、自分の個性の形成に與る所の自分の胃、自分の肺を、何時も自分の皮膚の下に意識してゐる譯ではないのではなからうか。


かめれおん日記
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24443_15509.html



 実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。


文字禍
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/622_14497.html



ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏まとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
 医者でもあり・占星師でもあり・祈祷者でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋くうようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか? 他の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」


悟浄出世
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html



 * * *

駝鳥

 何故の長き首ぞも中ほどをギユウと掴めばギヤアと鳴くらむ



牧水の歌に似たのがある。

 きゆうとつまめばぴいとなくひな人形、きゆうとつまみてぴいとなかする



確か、若山牧水(1885〜1928)が歌人として身を立てるか、職に就くかで迷っていた二十代前半の頃の歌である。
中島敦(1909〜1942)はこれを知っていたのか、摘んで鳴かする式の更なる本歌があるのか。


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2014年04月05日

泣けるプロレス 心優しきレスラーたちの35のエピソード


泣けるプロレス 心優しきレスラーたちの35のエピソード    瑞 佐富郎と泣けるプロレス製作委員会   アスペクト



若い噺家がやる副業に、結婚式の司会がある。
式が盛り上がると正規の給金の他に、新郎新婦側から御祝儀が貰えることがある。この金額がなかなか大きい。
盛り上がる式とは、泣かせる式である。
噺家だった頃の伊集院光も式の司会をしており、先輩から泣かせる式の極意を教えられた。それは、変わったことをしない、というものである。奇を衒ったり、凝ったりすると、かえって盛り上がらない。よくある基本通りの進行に徹するのが一番盛り上がる。(大意)



プロレスエピソード集。読んでいる間中、上記の結婚司会の極意が頭を離れなかったほど、演出過剰な文章構成だった。思わせぶりな名前暈し、時系列の入れ替え、想像で挿し込まれるファンの声、等。
途中で背表紙を見、出版元がアスペクトだと知って何故か腑に落ちてしまった。理由は定かではないが、私にはアスペクトに軽薄な印象があるらしい。ファミ通の本を出しているのが原因か。

私はプロレスに疎いので、こういう演出がプロレスの手法なのかもしれない、とも思ったが、それで許容できるものではなかった。こういう人はどういう人の文体を手本にしているのか気になる。






文庫版では32のエピソードになっている。レスラー以外がメインになる話が3つばかりあったから、それが削られたかな。
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2014年02月26日

知的唯仏論 


知的唯仏論  宮崎哲弥 呉智英 サンガ

呉智英の「つぎはぎ仏教入門」を買おうと思ったのだけど、筑摩だからそのうち文庫になるだろうし、ならずとも、大きな出版社だから年数を経てもどこからか取り寄せやすいだろう、などと思って踏ん切りがつかず。吉本本についても同様。
他に何かないかと探して見つけたのがこれ。サンガなんて出版社は初めて見たので、不文庫化や買い逃しがあるかもしれない。宮崎の仏教本にも興味があったので買った。初期仏教の哲学に興味がある。

宮崎は仏教者(ラディカル・ブディスト)であり、宮崎が評論の師と仰ぐ呉は、仏教系高校を出た封建主義者である。



本書は呉と宮崎の仏教を巡る対談。
前半はさほど惹かれる部分が無くて、「無理ならぬ」が「無理からぬ」(宮崎)と誤用されているのが気になったりして、これは失敗だったかと思うが、後半から一気に面白くなった。
「つぎはぎ仏教入門」が引き合いに出される箇所が幾つかあるが、未読だから読み進められないということはない。



*
宗教学者の回心体験について

呉 じゃあ、中沢新一はどうですか。中沢センセーがああいう言説を吐かれるのは何かあるんですか。


呉が寄稿した産経新聞の連載コラム『断』にて、「吉川潮さん」について(小馬鹿にして)言及した回がある。
このコラムが収録された単行本「健全なる精神」の補注によると、元の原稿では「吉川潮センセ」なのだが、担当編集者から、それだけはやめて下さい、と頼まれて変えたのだ。吉川さんは『断』の執筆陣の一人でもある。
尚、呉の『断』では秋山眞人、芹沢俊介、吉本隆明がセンセ呼ばわりで掲載されている。彼らは『断』の執筆陣ではないらしい。

で、宮崎の中沢評抜粋

中沢氏はおっしゃっていることが時と場所によってコロコロ変わるし、結局何一つ―――自分自身さえも信じておられないのではないかと拝察いたします(笑)。


河合隼雄なる人物が日本のニューエイジ思想、ニューサイエンスのドンだったことがよくわかりますね。そのなかでも、相当にいかがわしいのが中沢さん。


ただ、文章には類い稀なる才能がある。勢い余って失敗するのもそれ故。(大意)


*

宮崎 だいたい般若心経なんかを漢語のままで写経させたりするから、お経の単なる言葉が呪文と化してしまうんですよ。で、「般若心経を唱えたら亡霊が退散した」などというオチの怪談話が流布されたりする(笑)。テレビなどでそんなバカ話を見聞きすると「霊が見えたりするのはすべて気の迷い、錯覚、妄想のせいと主張しているのが般若心経だぞ。お前、心経の冒頭に出てくる『五蘊皆空』の意味わかって唱えてんのか!」などと突っ込みを入れたくなります。意味もわからず読経したり、書き写しても何の功徳にもならんぞ。ちゃんと体読しろよって(笑)。

呉 あれはね、霊を説得しているの(笑)。

宮崎 えーっ、霊って説得されるんですか(笑)。まあ、鬼太郎シリーズに「妖怪学校」ってのもあるから、霊も妖怪も啓蒙可能なのかもしれませんね。



私も昔、般若心経の解説書を読み、暗唱出来るまで写経したことがあり、経文の概要を知っているので、般若心経で悪霊退散な話には冷笑的であった。
まあ、唱える人間が意味を知らないんだから、宙に迷う死んだ人間の方も意味を知らずに成仏退散して道理至極である。
当事者たちの意図とは別に、遣り取りの中身としては、霊と対峙した人間が、「霊を見るなんて俺の気のせいだ!」と言い、霊が「俺がここにいるのはお前の気のせいなのだな」と納得して消えてしまう構図であり、なかなか面白いものがある。

こんな昔話がある。
「生麦大豆二升五合」なる御経を唱えて病気や怪我を治すお婆さんがいた。或る人が「その御経は間違っている。正しくは『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』だ」と教えると、以来お婆さんは不思議な力を失ってしまったという。

単なる勉強不足ではなく、指導者側が勉強しないように仕向けていた部分があるはず。知識を独占していれば、都合のいい解釈を一方的に吹き込めるし、自分もあんまり勉強しなくていい。


*

宮崎 まさに若い子たちこそが直面している問題、たとえば自我危機、コミュニケーションの不全感そのものだと思います。この十六、七年のアニメーションの主題はまさにこの問題を堂々巡りしてきたといっても過言ではありません。


偶然だろうがエヴァンゲリオンとロレンスの『黙示録論』には似通った問題意識がある、と宮崎は指摘する。

呉 あっ、そうなの。俺、あれ見てないんだよ。そもそもああいうの好きじゃないから。
宮崎 そうでしょうね(笑)。たとえばこのアニメの初期のキャッチコピーに「溶け合う心が、私を壊す」というのがあるのですが、これなんかは『黙示録論』の「愛情にまったく身を委ねきるならば、底の底まで絞りとられ、ついには個人の死を将来する」と同じディレンマ状況が語られていますよね。
呉 ああ、そうなの。


私は、共依存の末の破滅みたいなものを思い浮かべていた。
ちなみに宮崎はまどマギを観ているし、あの花においては号泣するそうだ。


*
女が好む「優しい男」とはどのようなものか。その優しさについて呉と宮崎の見解が分かれ、話は恋愛や結婚の関係に及ぶ。呉の見解は頭でっかち的で、宮崎の観察研究的な見解が優勢である。その締めの一言。

呉 恋愛や結婚については、私にはよくわかってないところがあってね(笑)。いろんな人からバカにされている。ちょっとくやしい(笑)。




*
哲学者の中島義道は「人は死ぬ限り幸福になれない」と主張しているが、宮崎はこれを「不死が幸福の必要条件」と換言出来るが、それは違う、「死ぬ限り幸福になれない」は真実だが、「不死である限り幸福にはなれない」も真実であると言うべき、と言う。
「永遠」にしろ「無」にしろ、その中に閉ざされてしまうことは恐怖であり不幸だ。

宮崎 子供の時分、このことをうまく人に説明出来なくて困っていたところ、仏教は常見と断見をともに斥けるということを知って、息を呑むほど驚きました。常見は常住論ともいいますが、要は永遠に生きる、無限に存在し続けるという見方。これに対して、断見、断滅論というのは死ねば死にきりで、無に帰してしまうという見方です。仏教はこの両端の見解を否定する。両説に囚われている限り、人は幸福になれないとブッダは述べている。



では、この両端を否定して仏教は何を見ているのか。
この続きにコレですと直接明文されてはいないのだが、先程の「ああ、そうなの。」へ続く宮崎の引用が答えを示していると思う。

宮崎 アポカリプス論を解題するドゥルーズはさらに一歩進んで、仏教的とすらいえる思索を書きつけています。なかなか美しい文章なので引用しておきましょう。
「太陽を崇拝したロレンスだが、それでも彼は草葉の上にきらめく太陽の閃きだけでは関係はつくれないと語っている。彼はそこから絵画や音楽に対する一つの見解をひき出したのだった。個をなしているのは関係であり、自我ではないのだ。おのれを一つの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他の様々な流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること。希少性さえ、涸渇さえ一つの流れなのであり、死でさえも一つの流れとなりうる」(『情動の思考』)
呉 非信者である私から見れば、本当に仏教的です。我執への批判がよく出ています。


常見も断見も個我からの観点で、仏教の執着から解き放たれる教えはそのどちらにも与せず、個我ではない「この私」とは関係の中にある存在として見出せる。と、大体こんなところだろうか。
宮崎は終盤で仏教を「『この比類なき私』から入り、『縁起する無我』で出る」と述べている。
本書に紹介されている「ミリンダ王の問い」にも、存在と関係の話があるのだが、それはまた別の機会に扱う。


*
簡単に言うと、仏教における善悪は絶対的なものではなく、どれだけ悟りに近づけるか遠ざかるかの、相対的な距離である。教団の律は、僧たちの社会的信用を保つこと含め、周辺社会と衝突しないための取り決めである。
南直哉「仏教には論理学はあるが、倫理学はない」


「大天の五事」という仏教界を揺るがした大事件がある。
大天という阿羅漢(煩悩を滅した聖者)が、夢精してしまったのだ。wikipediaから冒頭部分を引用する。

後に一夜染心を起こして夢に不浄を失して衣を汚し弟子に洗わせた。弟子曰く、阿羅漢は一切の煩悩を尽す、猶斯事ありや。大天曰く、天魔の誘惑せらる所阿羅漢も不浄の漏失を免れること能わずと。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%A9

阿羅漢が夢精をするか否かなんてことよりも、そんな衣を弟子に洗わせていることが私には大事件だった。
やっぱ仏教に倫理は無いな。


*
つぎはぎ仏教入門
https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/652/



私には仏教体験も知識もほとんどないので、興味深いと思っても自分なりに説明しようとすると窮してしまう部分が幾つもあったが、かなり良い刺激を受けた。後で再読する。
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2014年01月28日

幽霊船


幽霊船・バートルビー ハーマン・メルヴィル 作 坂下昇 訳  岩波文庫


典型的な幽霊譚がゴシック小説として書かれたらどんなものであろうか、と思って手を出したら、期待していたような幽霊譚ではなかった。
全体として面白くなかった、とは言わないが、岩波の翻訳小説にありがちな面倒な遣り取り。


どんな仕事を言いつけられても「僕、そうしない方がいいのですが」と言って応じない青年バートルビー。
私は表面的な読み取り方しか出来ないので、面倒な喜劇として読んだ。とっとと放り出しちゃえよ。
カブトボーグの社長が言う「俺はどっちでもいいけど」はこれがモデルではないかと思ったので、それだけで読む価値はあった。本当にモデルになっているのか、俺はどっちでもいいけど。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BF%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%A9
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2013年12月27日

一日江戸人


一日江戸人 杉浦日向子  小学館文庫

イラスト多用、江戸の生活を軽いタッチで紹介する。
読み易く情報量の多い。(それだけ私が知らなかったわけでもあるが)


錦絵に見る江戸の美女の変遷

明和二年(1765)鈴木晴信タイプ
七頭身 ぽっちりした口 お椀型の胸 なで肩 細い手足 柳腰 清純派
http://ameblo.jp/rekisitosyakai/image-10123388963-10081907442.html

天明四年(1784)鳥居清長タイプ
十頭身 口角の上がった口元 きりりとした濃い眉 細くなった顔 長い手足
http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc160950

(1794)喜多川歌麿タイプ
八頭身 清長タイプより肉付き良く大きな胸
http://ja.ukiyo-e.org/search?q=%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF

文政七年(1828)渓斎英泉 タイプ
六頭身 細面 小さく釣り上った目 受け口 尖った顎 猫背 小さい胸 くびれのない腰 短くむっくりした足 垂れた尻
リンク

退廃的とでもいのうのか、一種凄みが出てきます。渓斎英泉がその姿をとらえていますが、眉根が寄って下唇の突き出た細面。姿勢悪く胴長の六頭身に甲高足、指の家た型悪く、最悪のプロポーション。ところが、これが渋い小紋を着て、しどけなく帯を結ぶと、ゾッとするほどの色気が出るからフシギです。




毎年十二月には「鶴の献上」といって、将軍家から天皇家へ鶴の贈り物をすることになっています。しかもこの蔓は、将軍自身が捕えたものでなくてはなりません。はじめのうちは、将軍も律儀に弓矢をかかえて野山を駆け回りましたが、後には、それ用の鶴を餌付けしておいて、それをチョイと仕留めて献上したそうです。



ああ、元禄世間咄風聞集で料理人が「つる之ほうてう」を挙げていたhttp://qazwsx.seesaa.net/article/370428141.htmlのは、鶴料理が斯様に格調高いものであったからなのか。
こうして予期せず違う本の話が繋がるのは楽しい。


 明治初期に来日し、大森貝塚を発見したアメリカの生物学者エドワード・モースは「日本には大根の他、ロクな野菜はない」と言い切っています。
 私たちにも馴染み深い大根、意外にも外来野菜なのだそうです。鎌倉期には渡来していたとみえ、日蓮上人の見た大根は「大仏殿の大釘」ほどの太さだったといい、『徒然草』にも、薬草としてちらりと名が見えています。品種改良が進められたのが室町中期、女性のふくらはぎのように立派に完成したのが、わずか三百年前、元禄のころなのだそうです。


 ちなみに、日本原産の野菜は、フキ、セリ、ウド、ワサビ、ジュンサイ、ゼンマイ、ワラビの七種のみと言われています。




相撲取りの話

初代の両国梶之助という人は大変な美男子で、土俵に上がる時は白粉を塗って、艶やかに結った前髪立に二枚櫛をさしたといわれています。
 白粉というのは諸説ありまして、いやあれは、まるで白粉を塗ったように色白だったというのが有力なんですが、櫛のほうはほんとうだったようです。
 櫛なんかさしちゃあ、けがでもしやすまいかと思いますが、これは、当時、頭突きをして相手を負かすなんてのは拙いように思われていたので、おれァそんなこたァしないぜという看板にさしてたんだそうです。その上彼は、相手によっちゃ、櫛が落っこったら負けにしてやらァとタンカを切ったといいます。
 子供じみているいやあそれまでですが、ソコがおもしろいじゃありませんか。
 この櫛をさすのは流行だったらしく、髷の前のとこにチョンと櫛をさした力士の絵が何通りも残っています。


もしも相撲のこんな部分が後世に強く受け継がれていたら、播磨灘みたいなのが当たり前の相撲界になっていたかもしれない。

雷電為衛門

小娘が彼の胸をちょんと突っついたら、大げさにズデーンとひっくり返ってた




旅支度

道中脇差といって町人でも護身のための刀を持つことができるが、ふだん差しなれないから重くてジャマになるし、いざ抜いても使う自信がないので持たない場合が多い。



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2013年10月17日

健全なる精神

健全なる精神 呉智英  双葉文庫

そろそろ夫子の文庫本が何か出てるだろうと思い、探すとこれがあった。夫子の仏教系の本も読んでみたいが、これらは文庫で出るのだろうか。出来れば文庫で買いたいのだが出ない気がする。


 刑法は何のためにあるのか。犯罪者を罰するためにある……のだろうか。常識的には、そんな気がする。しかし、法治国家における罪刑法定主義では、そうではない。犯罪者を罰しすぎないためにある。犯罪者に対する国家権力の執行を限定的にするためにあるのだ。
 考えてみれば当り前のこの道理を、私は、三十数年前の学生時代に法学部の講義においてではなく、それをサボって出ていた学生運動の集会で知った。当時学生に人気のあった老アジテーター羽仁五郎が、数千人の学生を前にこう言ったのだ。
「法律は君たちの味方だ。刑法は君たちを罰するためにあるんじゃないよ。権力を制限するためにあるんだ」
 マルクス主義では法律や国家を階級関係の反映と見ることぐらいは知っていたが、羽仁五郎のこの話は、情けないことに、私には新鮮だった、そして、これはマルクス主義の法律観の是非とは別に、法治国家という視点から見ればまちがいなくその通りであった。
 刑法は、国家の人民に対する可罰権の範囲を定めたものである。刑法を守るべきは、人民ではなく、国家なのである。



この話は、情けないことに、私には新鮮だった。多分私はこの解釈に気付いたことがなかった。少なくとも、明確に意識したことはない。

「加害者の人権ばかり尊重されて被害者の人権は無視されている」というしごくもっともな批判は、刑法の根本へ向けられた批判だということになる。断っておくが、「戦後憲法」という言い方はあるが「戦後刑法」という言い方はない。刑法は明治以来根幹に関わる改定はただの一度もなされていないからだ。加害者の人権ばかり尊重されるのは、戦後の風潮ではない。大日本帝国以来の近代法治国家の宿痾なのだ。




話はずれるが、前に夫子が仇討ち復活論を述べた文章で、受刑者が服役期間全く反省しなくとも、刑期が満ちれば出所で延長はない、ということを指摘していた。償いも反省も更生も、そんな義務は課されちゃいない、しなくても規定通りに出所するのだ。
では刑務所に入るとはどういうことか。私は第一義として、法的手続きに過ぎないと思っている。

こんな話を思い出した。
阿佐田哲也が若者と麻雀を打ち、或る場面で阿佐田は立直をかけた。上がるためではなく、相手の動きを見るためだったかの空立直である。
その局、別の者が上がって終わった。阿佐田は自分の手を見せたくないし、空立直を隠すつもりもないので、牌を伏せたまま罰符を支払う。すると若者が牌を見せろと迫る。立直したのだから見せるべきだと。
阿佐田は何のために罰符を払っているのかと苦笑しながら、それに応じた。

刑務所とは、この罰符みたいなものではないか。それに対し、さも当然であるかのように手牌は見せるものだと思う人がいて……。





夫子による山野車輪「マンガ嫌韓流」評。

マンガとしては未熟な点も多いし、小さな異論もあるが大筋では間違っていない。



美味しんぼ第76巻にて、支那の要人が「支那そば」の名称に怒る話があり、「支那という言葉がどんなにいい言葉であろうと、蔑称ではなかろうと」「相手がいやだと言うことは、やめればいい」とマンガ内で結論されているのだが、後々の美味しんぼにて、「シナハマグリ」が出てくる。
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2013年07月28日

元禄世間咄風聞集の続き

前回http://qazwsx.seesaa.net/article/370165014.htmlの続き

或人毎夜いせいを見申候て、殊外草臥申候由。医者申候は、「其方は女の事や若衆の事を思ひ寝申候ゆへ、左様いせい見申候。此後は何ぞつよき事をおもひ、あるひはをにの事などを思ひ寝申候様に」と申候。かの男、「心得候」由申候。其後右之医者又参り見申候へば、前方よりなを草臥居申候付、「如何いたし候や」と尋申候へば、「其方御申之通、をにの事をおもひ寝申候処に、終夜をに**尻をされ候夢を見候てなを草臥申候。ケ様に草臥候はば本のごとくいせい見候がましにて候」由申候。



或る男、毎晩夢精をして大変疲れるので医者に相談した。
「貴方は女や若い男の事を思って寝ているから、そのように夢精するのです。今後は何か強いこと、例えば鬼の事などを思いながら寝るように」「わかりました」
後日、この男がまた医者を訪ねてきた。前よりもっと疲れた様子。「どうしました」「言われた通り、鬼の事を思って寝ていましたところ、一晩中鬼から尻を掘られる夢を見て、余計に疲れました。こんなに疲れるのなら、前のように夢精した方がましです」

・安藤出雲守様御咄也とのこと。(安藤出雲守信富。当時書院番頭。七千石。)
・**部分は欠損。


或人和尚に尋申候は、「ばけ者は世間に有之者にて候や」。和尚云く、「成程多きものなり。其方なども逢候なり。人が色々かわり候がばけものなり。先上戸に酒を出候に、さいぜん下戸をつくり一てきもならずと云なり。是則ばけ物なり」と答しと也。


さいぜん下戸をつくり〜:最初は下戸を装い一滴も飲めぬと云う(しかし、飲みだすと上戸に変ず)


南部御領内に、八十歳以上之者七百四拾七人、九十歳以上之者百五拾人、百歳以上之者七十五人、百弐十七歳之者壱人御座候由。


・十と拾が交じっているが原文通り。
・南部氏領は、岩手の南方除く青森頭部と秋田東北隅を合わせた土地。


尾張中納言様御料理方殊外不出来に御座候付、御意被成候は、「料理人共下手にて、御料理殊外不出来に被思召上候。其段料理人に申聞、日根九郎兵衛などに料理方稽古させ可申」由被仰出候。依之御家老衆料理人之頭を呼び、御意之趣被申聞候得ば、料理人なみだをほろほろとながし申上候は、「御意共覚不申候。私先祖は源慶様より此かた御成、扨は御祝之砌、七五三の御料理、つる之ほうてうも被仰付候へ共、不出来故料理方稽古仕様にとの御意無御座」由申上候由。


七五三の御料理:七・五・三の品数で出す祝儀料理。
つる之ほうてい:鶴の包丁。鶴を料理する定まった作法。

「御意無御座」をどう訳すのかよくわからない(中納言様はおっしゃらない?)が、悲しい話である事は十分に読み取れる。「殊外不出来」「料理人共下手にて」「なみだをほろほろ」悲しい。料理人の誇りと共に、多分本当に料理が下手なんじゃないかというのが伝わってきて一層悲しい。


三月十七日午之刻時分、空にわかに曇、雷雨氷降寒事冬天之ごとし。此節江戸護国寺近辺に病死之者有之、野辺に送候に、雷棺之上に落掛り死骸紛失いたし候よし。世間には火車にて有之由申候。(後略)


水木しげるの妖怪解説本で引用される火車出現記録は、出典は別の文献かもしれないが、事件としてはこれと同一あろう。
古い文献から使えそうな話をノートに抜き出す、という仕事が水木プロにはあり、かつて呉智英夫子もそのアルバイトをしていた。


六、七月殊外暑気にて、あつさに諸人難儀いたし、其上か多く有之、皆人難儀いたし候。去人或夜かおほき最中に座敷之角に居、物も不申だまり居候てかにさされ候哉」と存、たづね候へば、「あまりかたくさんにてしのぎかね候故、ケ様にいたしだまり居候はば、木とぞんじかさし申間敷と心得、だまり居候」由答候由。


か:蚊
この話と次の話は、阿須川咄と記されていて、注釈には座頭か勾当であろうと書かれており、座頭が民話を運搬したという説が思い出される。


京都にて出火之節、或人居宅近く火焼来故殊外さはぎ、諸道具出す人も不足にて殊外難儀に相見へ候処、其亭主してうを外に持ち出、してうをはり其内に諸道具を沢山入れ申候。脇より見出し候て、「それはいかが被成候事にて候哉」と申候へば、「いや、してうの内に諸道具入置候はば、土蔵ぢやと火が可存と存、ケ様にいたし申候」由答候と也。


してう:紙製の蚊帳


赤坂大乗寺に旦那何がし子息を頼置候処、みめよく候か同宿申候もの有之候て、何といたし候か右之若者をさしころし、同宿も共に自害いたし候由。


同宿:同僚の僧  見込:執着する。恋慕する。
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2013年07月25日

元禄世間咄風聞集 



元禄世間咄風聞集 長谷川強 訳注 岩波文庫


当時の事件や醜聞、何でもない世間話等を記したもので、短文が多いとは言え、口語訳がついていないから読み辛く、ちゃんと読めているのかわからず、興味のない人が読んでもほとんど面白くない一冊。
野晒しの原話も収録、なんて書かれていたので軽口本みたいなのかと思ったら全然違った。
話好きの殿様のために集めた話と思われる。



松平大和守様御家来林右(衛)門、年百五十五にて去年死去仕候よし。


*『御当代記』には、天文12年葵卯年生まれ、151歳の林理左衛門から昔のことを聞いていたとの記載あり。



さかい町勘三郎座、袖崎かりうと申野郎に、ろうにんもの芝居にてうで二刀ひき申候。依之ぶたひの内につれこみ申候。右うでひき申候ろう人金子拾五両にてたのまれ申候由。


袖崎かりう:袖崎歌流 若女方。当時の代表的な女方の一人。
ろうにんもの:牢人者
うで二刀ひき:腕を二カ所切る。役者に贔屓の心を示すために、舞台に上がり指を切るなどの例があった。
依之:これによって


面倒事とはいえ、15両とは大した金額だ。依頼主は商家の若旦那か。

Q5.江戸時代の一両の現在価値はどのくらいですか?

A5.江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。世の中の仕組みや人々の暮らしが現在とは全く異なり、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容に違いがみられるからです。

 ただし、1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約32万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中〜後期で4〜6万円、幕末で約4千円〜1万円ほどになります。


日本銀行金融研究所貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a5.html
他にも賃金換算で20万円や50万円の説も見かけたが、32万で15両を換算すれば、480万円になる。



丹後守様朝夕之御食御かけさせ被召上候へば、壱度に七百上りよし。夫付て御家老中、「被上候は御慰も可有御座処に、左様に御食も御かけさせ、一度に沢山に被召上候をいかがに奉存候」由申上候へば、「つひつひ召上候」由にて、其後は御かけさせ不被成候由。併不断之御食事が右之通にて御座候由。


夫付て:それについて
御食御かけさせ:食事の量を計らせる
七百目:約2600g程
被上候は御慰も〜:食事をするは楽しみ
併:しかしながら

昔の人も「つひつひ」なんて言い訳していたのだなあ。
重さは器込みだろうか。
1合の米を炊くと約340gになるらしいので、それで換算すると2600gは約7.65合。これが1日2回。
時空を超えて伝わる「併不断之御食事が右之通にて御座候由」からの呆れた響き。


本庄にて先頃犬きり申候者、大工の弟子市兵衛と申者にて有之候。依之子ノ八月六日はりつけにかかり申候由。


*犬を捨てても犯罪



続きhttp://qazwsx.seesaa.net/article/370428141.html
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2013年07月17日

いねむり先生


いねむり先生 伊集院静  集英社


伊集院静の本を読むのは初めて。この人の代表作が何かも知らない。色川、サイバラとの関係で目にする人。

色川武大と伊集院の付き合いは、色川の死ぬ2年前からと短いが、「出来ることなら伊集院静と結婚したい」と言われるほど気に入れられていたそうだ。


これは二人で過ごした時間を描いた回顧録的小説である。小説であるからには嘘がある。

作中のほとんどの出来事は事実だが、1カ所、大きなフィクションがあるという。「競輪場がある新潟の弥彦に行く場面です。一緒に弥彦の桜を見に行くのをずっと楽しみにしていたと、没後に先生の奥さんから聞いたから」


伊集院静さん 『いねむり先生』 
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110424/bks11042410210016-n1.htm(リンク先消失)

90%事実で90%が小説です。最後のところで、香港で先生にそっくりな人物に偶然出会ったのも事実です。


http://allatanys.jp/C004/L0008M0060S1764TE004_2.html(リンク先消失)


小説に対して、ここが本当でここが嘘、などとあまり言うのは野暮であるが、私は色川に興味があって伊集院に興味はないので、この虚実の割合が気にかかるのだ。おゆるし。
色川の生前は彼の狡猾な面を知らなかった、と伊集院がどこかの記事で答えていた。


小説という体ではあるが、素直に色川との交際録随筆として書けばよかったと思うほど、小説として体を成していない。
あまり勝手に「先生」の心情を作り上げてしまうわけにもいかないせいか、主人公が「先生」から何故こんなにも気に入れられているのかよくわからないところなど、非常にもやもやする。
終盤は急速に小説化してゆき、きっちり締められたことに感心した。
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2013年06月03日

R62号の談義

R62号の発明・鉛の卵   安部公房 新潮文庫

安部公房の文章を追うだけで理解が及ばない私には、風邪で頭がぼんやりしている時に読むのが意外にも湯加減として適していることがわかった。

「鉛の卵」は、文明を持つ異生物と接触した男の話である。
多分星新一だと思うが、こんな話を思い出した。
文明を持ち、地球人とそっくりな姿をしている異星人の星へ地球人の男たちがやって来て歓待される。異星人の女は美人で、しかも簡単に口づけさせてくる(それが挨拶だったかな?)ものだから、地球人はでれでれして喜ぶ。ところが、この異星人と地球人には大きな違いがあって、口と肛門が逆についているのだった。つまり、地球人が口づけしていたのは……。という話。
感想が大きく分かれる結末だよね。





妖怪大談義 京極夏彦   角川書店

京極がつけたのか編集者がつけたのかわからないが、本の題名はいまいちセンスがないと思う。「妖怪馬鹿」は良かった。
京極の対談集だから、柳田國男民俗学がどうたらこうたら系学問的・社会問題的が中心の妖怪談義。(唐沢なをき相手には妖怪図鑑を広げてひたすら喜んでるだけ)
京極の守備範囲の広さと深さはどうやって培っているのだろうか。
水木しげるになろうとすると、荒俣宏を経由するらしい。
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2013年05月03日

歎異抄 現代語訳付き 


歎異抄 現代語訳付き 梯 實圓 解説 本願寺出版社



法然や蓮如と並んで授業に出てきたのは憶えているが、親鸞が書いたのだと勘違いしていた。親鸞の言葉を記したもので、唯円房が著者と見られている。

「念仏唱えている者が、相手を打ち負かすための議論をして、親鸞が言っても言ないことを言ったと言い張ったりしてて実に歎かわしい。みんなの信心が異なることがないように、泣きながらこれを書きます。名付けて歎異抄でーす」
(「念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり」「一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし」)


往生するための方法を説いているのではなく、信心の在り方を説く話。
一番面白かったのは第二条、遠路はるばる訪ねてきた人に親鸞が語る話。

『遠くからわざわざ来たのは、念仏以外の往生方法とか、それの解説なんかを聴きにきたんだろうけど、俺は法然に「念仏で阿弥陀仏に救済されて往生するよ」って言われて信じてるだけで、他の事は知らないんだよね。
念仏で本当に往生できるのか、逆に地獄へ堕ちるのか、全然知らね。もし法然に騙されて地獄へ堕ちても別にいいの。平気。
もし他に方法があって、それをやっていれば仏になれたけど、やってないので地獄行きってことなら、そりゃあ怒るよ。でも、どんな方法であれ、俺如きにちゃんと修行できるわけない。だから、もともと地獄行くしかねえの。
阿弥陀仏の衆生救済が真実なら、それを説いた御釈迦様の教えが虚言であるわけない。御釈迦様の教えが真実ならば、善導大師の解釈も虚言であるはずがない。善導の解釈が真実なら、法然の言ってたことも嘘じゃない。法然の言ってることが真実なら、この親鸞が言うことも無意味じゃねえだろう。これが俺の信心。』

この後半、かなりの詭弁。
正しく継承できている理屈がない。最後も0か100かみたいな結論の出し方。


孔子が三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知っているが(後に勘違いではないかと疑う)、ゴーダマ・シッダルータが悟りを開いたのは35歳。出家したのが29歳。
キリストが磔になったのは35歳くらいの時。
ネロが見た「キリストの昇架」「キリストの降架」は、ルーベンスが30代で描いた絵。

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2013年04月21日

さぶ

さぶ 山本周五郎

主人公は栄二。仕事先で盗みを働いたと無実の罪を着せられ、心の荒んだ栄二は人足寄場(罪の軽い者が隔離されて労働と生活を送る場。扱いは罪人ではないし、ここで技術や金を得て世間に復帰できる。)へ送られ、そこで人間として成長する。

寄場の人々に優しさに、山本周五郎が日本残酷物語に参加してたのが、なんとなくわかるような気がする。

かつて親身になって栄二から支えられていたさぶは、心の荒んだ栄二に冷たくされながらも献身的に彼に尽くす。非常に物語的な情の厚さだが、それでも安心するのは幸田露伴「五重塔」の職人二人の姿が重なるから。あっちは片方が全然仲良くする気がなくてさあ……。


人情ものとして面白く(栄二の境遇に同情するのも含め)読めたが、終盤に変な展開があり、解説の河盛好蔵もその欠点を指摘している。



以下、ネタバレ。




栄二は仕事を失い、荒れ、人足寄場に送られる。そのことを誰にも伝えず、寄場でも素性を明かさずにいたが、さぶは捜し当て、毎月寄場に差し入れを持ってくる。栄二を好いているおすえも、荒れる栄二を時に諭しながら、彼を支える。

寄場を出て、おすえと夫婦になった栄二。ひょんなことから、おすえは告白する。

無実の罪を着せたのは、栄二を好いていたおすえであった。栄二もまたおすえを好いていたのであるが、仕事で出入りしている家の娘と栄二が結婚するのではないかと思い、栄二の仕事袋に家のものを入れて泥棒に仕立てたのである。

栄二はそれを許す。寄場で自分は大きく成長できた。感謝している。
こんな終わり。


これの何がいけないのかというと、おすえに犯人らしい言動が何もなかったのだ。栄二を取られたくなかった程度の動機は他の登場人物にも持たせることが出来る。
自分のせいで苦しむ栄二に、後ろめたさを感じさせる言動がなく、説教めいた励ましをする等、単に献身的に支える誠実な女としか描写されないまま、あまり自発的ではない形で最後に告白し、栄二からあっさりと許される。

今になって思えば、おすえの仕業だと思い当たる節が……なんてことは(私には)ない。私一番疑ったのは仕事先の家の者だったが、これは犯人捜しをする物語ではないので、真相は闇の中のまま終わってもいいと思っていた。
かつては自分を陥れた相手を憎みきっていた栄二が、今ではそれをただ許す。この成長した姿を描きたいばっかりに物語が極端に薄らいで、作者の主張ばかりが目立つ急展開。台無し。
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2013年02月20日

談志・志らくの架空対談 談志降臨!?


談志・志らくの架空対談 談志降臨!?  立川志らく  講談社


談志の死後、志らくの中には「談志がいる」そうで、その談志との対談。
落語の話もあるが、大半は映画・歌謡曲(志らくはどちらへも造詣が深い)を、あれが良い、これは駄目、と羅列していた印象。「談志」案内書を兼ねた羅列だが、遊びでもあるだろう。
(談志と色川武大は、マイナーな映画等について「〇〇って知ってる?」と知識を試す遊びをしていた。)

私は志らくをあまり知らないので、読みたいのは談志の本である。
これはこれで談志本として価値のある内容だとは思うが、弟子から見た談志像ではなく、談志本人が話しているという体なのが私には合わなかった。
語り口の再現はうまいし、私が談志を知っているわけではないし、談志本人の発した一言一句なら何でもそのまま受け入れられるというわけではないが、本人の言葉なら本人が発したという納得がある。本書にはない。この有無が引っ掛かっている。

本の題名も架空対談で切っておけばいのに、後の一言が安っぽい。

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2013年02月14日

談志の落語 三


談志の落語 三  立川談志  静山社文庫

『弥次郎』を読むのは小学生以来ではないか。これ、好きな噺だった。弥次郎もご隠居も解って話しているのがいい。

「猪の腹から子が十六匹出てきたね……」
「判った判った……」
「判るでしょうけど、話を盛り上げるために、“どういう理由で十六匹か?”と聞いてくださいよ」
「馬鹿々々しいネ、どうも。ま、いいや。で、何で十六匹も出たんだい」
「これが本当の“猪の十六”。面白いでしょ」
「面白かないよ、ちっとも」



カラオケ病院が柳昇の作とある。桃太郎がやってたのをNHKでみた。

『ずっこけ』は去年くらいに、桃月庵白酒がやっているのを観た。落語研究会かな。
その暫く後、アイドルの真野恵里菜が何かの企画で、落語をやるとかいう芸能ニュースを見かけた。その指導に当たったのが白酒と書かれており、私は真野が『ずっこけ』をやったに違いないと決めている。
(『ずっこけ』は酔っぱらった男が素面の男に小便の手伝いをさせたり、ふんどしが外れて全裸になったりする噺だから、事実ベースでは真野が違う噺をやっている可能性が高い。)

桃月庵白酒は、落語という芸能が成立した最初期に登場する名代。文楽や正蔵もその頃からいる。多分。岩波「化政期 落語本集(下)」の解説にそう書いてあったと思う。未確認。
当代は三代目。まだあまり観ていないけれど、いい芸人だと思う。私の東京滞在時、浅草演芸場に出ていたのだが、都合がつかずに観られなかったのが残念。師匠の五街道雲助もいい。


最近、市馬の『首提灯』を見たが、談志の方が良かった。

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2012年10月11日

テースト・オブ・苦虫T

テースト・オブ・苦虫T 町田康  中公文庫

随筆風の掌編私小説群。解説の田島貴男は「シットでファンシーで爽快な文を読んで、ぼくも頭の中の笑いの括約筋をガシガシとマッサージされた」と書いているが、そんなに笑うような話だとは思わない。
私にとっての町田は、支離滅裂な展開を通す技(それでいて高評価を得ている)が見所の軸であり、楽しむことはあっても「笑う」ほどのことはあまりない。尤も町田自身は笑わせようとしているのかもしれぬが、ならばそういう才能は乏しいと言わざるを得ない。

私が10冊も読んでいない町田本で、随筆(?)の一番は「へらへらぼっちゃん」。純文学(?)ならば、何かの賞を取って文藝春秋に掲載されたやつ。芥川賞の「きれぎれ」だったかなあ。内容は多分よくわからなかったけれど、最後に沢山の菩薩が降りてくる情景は、美しいとか素晴らしいとか圧倒されるとかでは感覚の根元まで届く言葉にならない体験だった。
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2012年10月03日

麻雀狂時代

麻雀狂時代  阿佐田哲也   角川文庫

数年ぶり再読。引用部、原文では「蝋」が異体字

新宿2丁目のIという酒場に、小島武夫くんと一緒に夜おそく入っていったら、赤塚不二夫さんとタモリくんが、全裸で、レズショーを真似て身体をくねらせていた。二人とも乗りに乗って、ロウソクの蝋をたらしあい、身体じゅう蝋だらけにしている。山谷初男氏がこれも全裸でそれにからみだす。この店は時折り、客たちの間でこういう乱痴気騒ぎがくりひろげられる。



びっくりした。直前にツィゴイネルワイゼンを観ていて、久しぶりに山谷初男を観たなーと思った直後に読み止しの本を再開してこれですから。本読んでて普通出てきませんよ、山谷初男って名前は。(タモリと赤塚の件は憶えていたけれど、山谷がからんでいたことはすっかり忘れて読んでいた)

貴方、本読んでて一年に何回山谷初男出てくる? Hathuo Yamataniファンブックとか抜きで。全然無関係な本で数えなきゃ駄目。三回あるかないかくらいでしょう。それと、今までツィゴイネルワイゼンを観た回数を考えてください。原田芳雄があんなことになっちゃったあとに本の中から山谷初男が全裸で登場する組み合わせが無作為に発生する確率、これは、分解したアナログ時計の全部品を袋に入れて振りまわし、部品が組み合わさって時計が元通りになる確率に匹敵します。つまり、私は神です。

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2012年10月01日

漢詩の名句・名吟 12/09/30

漢詩の名句・名吟  村上哲見  講談社現代新書


杜甫が李白を詠んだ詩にこうある。

 李白一斗詩百篇


李白は一斗の酒を飲むうちに百篇の詩をつくる。

これを受けた江戸の川柳。

 李太白 一合づつに詩を作り



一斗は百合、十升。もう一首。

 四日目に あき樽を売る李太白



ここに出ているのは、今でも鏡割りに用いる四斗樽。実際には李白の時代(唐代)に四斗樽はなかったようだが、一日に一斗も飲んでいたのは強ちない話でもないようだ。
筆者によれば、数量単位は時代によって変動し、一般に時代が下がるほどふくらむと言う。唐代の一斗は日本の尺貫法に直すと約三分の一、現代の六リットルぐらいにしかならないらしい。
更に唐代には蒸留技術がなかったため、アルコール度数は十パーセントにも満たないと筆者は推測する。


芭蕉の弟子服部嵐雪の句に、杜牧の詩から一句を丸ごと引用したものがある。
 

はぜつるや 水村山郭酒旗風







数年前のことになりますが、NHKの特別番組「シルクロード」が日本全国を風靡したことはどなたもご記憶でしょう。喜多郎のテーマメロディとともに、はるかにひろがる沙漠を行くらくだの隊列、「平沙万里 人煙を絶つ」という光景をまざまざとみせてくれました。
あの時のNHKの取材班のひとりが、わたしの大学の後輩で、番組の裏話をいろいろきかせてくれたのですが、そのひとつ、夕日のかがやきをバックに浮かびあがるらくだの隊列のシルエット、あの感動的なすばらしい映像は、じつは完全な「やらせ」、いわばつくりものだそうで、沙漠のキャラバンというものは、すこしでも風あたりをすくなくしようと、かげのようなところばかりを選んで行進するものであって、――「わざわざシルエットが浮かぶような稜線を行くバカがどこにいますか」といわれ、「なるほど」となっとくしたことでした。


本書の初版は1990年。私はこの番組を観ていないが、稜線を行く隊列と夕日の組み合わせは容易に思い浮かぶので、NHKに限らずよくやらせているのだろう。
そういえば平山郁夫のらくだは稜線を歩いていない。




ちょうどこんな話題があったので、ついでに。


徳島県議会議員、来代正文

マスコミは大体に置いて、筋を決めて、色んな声を集めながら、都合のいいのを作り上げますが、撮れない時は、ヤラセつまり、答えを仕組んでいるのです、又、編集で音声を作る方法もありますよ!私テレビ局、二十年!


http://togetter.com/li/312183


来代正文
NHK放送記者おもに政治・経済を担当し、橋・道路・農業問題などが専門分野。特にリポーターとしてテレビ画面で活躍。


http://www.jimin-tokushima.jp/kengiin14.htm
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2012年09月21日

日本笑話集


日本笑話集 武田明  現代教養文庫 社会思想社


青森の話。地蔵浄土(かけろ虫)

小さい鬼が一人、金玉をばらに引っかけて逃げ遅れた。


ばらとは何だろう。日本の昔話だから薔薇ではあるまい。茨だろうか。
調べてみると、日本は薔薇の自生地で、江戸時代には身分を問わず園芸が流行って薔薇も栽培されていた、とwikipedia。
茨(いばら)は、とげのある低木の総称。古くは「うばら」と言った。金玉を引っかけたのはこういうものだろう。
類話(鹿児島甑島)には、出べそを戸口の簾に引っかけたものもある。そちらの結末

夜に地蔵堂へ集って博打する鬼を、物陰から鶏(かけろ虫)を真似た鳴き声で朝だと勘違いさせて追い払い、残していった銭を頂戴する爺、の話を聞いた隣の婆が自分のところの爺に同じことさせたら、逃げ出す鬼の金玉事故で笑ってしまい人だと気付かれ……

鬼どもはもどってきて爺をにくい奴だといって血みどろにした。爺は真赤になって泣きながら家に帰った。婆は欲が深いから、それを見て「おら爺は赤いぼぼ(着物)着て来た」と思ってよろこんで遠くから眺めていた。


着物といえば一般に「べべ」だが、地方によっては「ぼぼ」らしい。老人が血みどろにされながら歩いて帰宅できるところに、昔の人の頑丈さが表れているね。



猿地蔵という話。猿から銭をせしめた爺の話を聞いた隣家の爺、真似をするが失敗してしまう。そうとも知らず…

婆は今に爺は猿から金をもらって美しい着物などをうんと買うて来るべえと思って、今まで着ていた着物をば脱いでみな焼いて裸になって待っていた。ところが爺はぬれ鼠になっておういおういと泣きながら帰って来た。
それを、あれあれおらが爺は猿から美しい着物だの金だのもらって、あんな歌を歌って来るといって、婆は待っていたとさ。


漫☆画太郎が描きそうな婆。



麦粉長者という話。或る日、爺が狸に地蔵と間違えられて、知らんぷりをしていたら沢山の供え物を置かれる。

爺は夜になって狸どもが居なくなってからそのお供物を持って帰って婆と一緒に食べた。毎日毎日そんな事をしているうちに貧乏な爺の家はだんだん金持になってきた。近所の欲ばり爺がその事を聞いて


待て、地蔵詐欺を毎日続けた爺だって十分に欲ばりだろ。



ヒッツコーカ、モッツコーカという話。
かくかくしかじかで、体に一杯むかごをひっつけて帰って来た婆。隣の婆がそれを真似ると、体に一杯松脂がついてしまった。

もどって爺さんに言うと、「そりゃ火で焼かんといかん」と言うた。それで婆さんが体を火に焼くと松やに火がついて婆さんはとうどう死んでしもうたとさ。そこで誰でも人の真似するでないと。


死んだのは真似のせいではない。



本なり瓢箪という話をダイジェストする。
三人の兄弟が一人ずつ父の枕元に呼ばれ「これを大事にして跡を継いでくれ」と瓢箪を渡された。間もなく父は死に、兄弟はそれぞれが父から同じことを言われているのを知り、跡継ぎは自分だと主張した。
話がつかないので村の和尚に裁きをつけてもらうことにする。和尚は、本なりの瓢箪を貰ったものが家督を継ぐべき、一番重いのが本なりだ、と言う。三つの瓢箪を量ると長男の瓢箪が一番重かったので、長男が家督を継ぐことになった。

岩手の話。これで全部。思わせぶりな事をしておいて、結局は長男が継ぐところが面白いのだろうか。父親の真意もわからない。何か大事な部分が省かれたまま語り継がれてしまったのではないか。



和尚と夕顔という話の出だし。

あるお寺に和尚さんと小僧があった。和尚さんは瓢に顔を描いて、女の衣装を着せ、それを床の間に飾っておいた。外へ出る時はいつも、「俺ら行って来るで」といって、つけてある糸縄を引張ると、その姉さは首を下げて人間のようにお辞儀させて、毎日それを楽しみにしていた。


哀しくて胸が痛む。どれだけ寂しい思いをしたらこんな楽しみに耽るのか。
私がこうなってもおかしくない気がする。いや、多分違った形で同じようなことをするのだろう。和尚の胸の内にあるものへ、早晩私も到達するのだ。和尚を通して私は私を憐れんでいる。哀しんでいる。涙が滲む。
何にせよ和尚がこんなことではいかんと思う。
類話。

昔、和尚さんがあったが、嫁さんがなかった。それで南瓜に目鼻をかいて、嬶にしていた。よそに行った時は、いつも土産を買って帰っていた。夜も抱いて寝ていた。
小僧はこれを見て、汚いことをする和尚さんだ、俺がいたずらをしてやろうと言って、針をつきさしておいた。和尚さんは体に針をつきさした。


もう和尚じゃなくて患者だよ。




この本は笑話の分析が主題で、笑話の紹介はそのために行われている。分析の中で興味深かったのは、村から村への笑話の運搬に大きな役割を果たしたのが座頭であったこと。
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