2008年07月14日

08/07/123

店の駐車場財布を拾う。折り畳み式で、免許証と5000円が見えた。あたりに人気なし。心拍数があがる。盗もうか。俺は決して善人ではないし、真人間になれるつもりもなし。今更5000抜き取ったって仔細なし。俺の業だの属性だの人格霊格だのは、それくらいじゃ動じない。もう取り返しのつかないことをやってしまっているから。
それでも、何盗むことなく拾ったそのままを店に届けたのは、もし懐に入れたところを落とし主や何者かに見つかり、殴られるなり警察でも呼ばれるなりすれば大変な痛手であるし、知人に見つかれば白い目で見られるかもしれない。と、そういうことがしっかりと頭を占めていたからに他ならない。もしくは俺が慈愛に満ちた善良な市民で、マザー・テレサの背後霊がたくさん憑いてるし、駱駝も思わず針の穴を通ってしまうくらい徳を積んでるうえに、週刊誌は俺の美談を毎週載せるし、病気の少年のためにホームランを打つ約束で8年先までスケジュールが埋まってて、リングにあがるのは孤児院に寄付をするためだし、家族連れが何を注文しようとかけそばを一杯出してやるし、銃撃されても胸ポケットのシェリフバッヂで命拾いして、日本のシンドラーと呼ばれ、桜の木を切り倒したのを新聞の3行広告で自白して伝記を出し、余った傘を地蔵に被せ、罠にかかった鶴も狐も助ければ、ついでに傘をくれてやり、地球に優しい商品を販売して生活を豊かにするビジネスに勧誘し、ついでに和牛オーナーとエビ養殖への投資を勧め、学校の火事を消し止めるために魔法使いであることを友達にばらし、調査捕鯨船で天婦羅を食べ、JB直筆ゲロッパ掛け軸を落札し、キムチで寄生虫に感染したらラッキーかもしれないので、閉じ込められた少年を助けるために金庫破りをした逃亡犯を見逃し、死んでも口からラッパをはなしませんでした。


何故度胸を出して盗まなかったのだろう。
届けてしまったあとの落胆は、罪悪感に似ていた。
善いことをした御褒美に、誰か金くれ。10000円くらい。くれよ。
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2008年07月10日

08/07/09


このマンションのポストには、時折占い屋のチラシが配られる。そのチラシ配りが廊下に出ていた隣室の婆と遭遇し、手相を見ていうには「食べるのには困らない」相をしているということ。先行き不安なこのご時世に有難き相だと見るか、そりゃあ現代日本じゃ大抵は食べていけるだろうと見るか。
東京駅の地下でたまたま小金を持っていた私は、占い師の御婦人に名前と水晶で占いをしてもらったことがある。見料は3000円したかどうか。占いは文化的なものであり技術であり芸であると思ってい、信じているわけでもない。たまには異常に勘の鋭い人や、何か「見える」人もいるだろうが、私は会ったことがない。
占い師は私の大まかな過去を漠然と言い当て、将来像を見、最後にこんなことを教えてくれた。話す客を選ぶ話がある、と。それは異性の話。特に若い女客は恋愛関係の話をするとぎゃあぎゃあ騒ぐのでそういう話には触れないのだそうだ。
おとなしく話を聞いていた私に、占い師は残念そうな顔をしてこう告げた。
あなたには一生を通じて女に縁が少ないでしょう、と。

出鱈目に茄子とピーマンの味噌炒めを作る。これがやたらとうまかった
網で焼いただけのオクラをめんつゆで食べるも実に良し。
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2008年07月07日

桜桃記

山形さくらんぼをいただく。
私は幼少の砌よりさくらんぼが好かなくて、極力これを避け、生まれてこのかた片手で数えるほどしかさくらんぼを食べたことがない。回数ではなく個数の話だ。
チェリー味」の類なら食べられるのだけれど、本物はいけない。何が好かないって、種があるのが好かない。一旦口に含んで種を出すというのは少々品がない。それでいて飲み込むわけにもいかないから逃げ場がなくて、結局吐き出さざるをえない。

スイカは食う。よくよく思い出せば、いまでこそ抵抗なく食べられるスイカにも、幼いころには葛藤があった。指やスプーンで予め種を取り除いたこともあったが、スイカは大抵何人かで食べる物、万座がしゃくしゃくとスイカに齧り付いているところに私ひとりだけがスイカをいじっているのはみっともないし、下賎の出なのに上辺だけ上品ぶっているようで不様だ。小さいものだから飲み込んでしまう、という案もあったが、何分量が多い。第一、本来食べるべきでないものを食べる飲み込むのは如何にも不気味である。仕方なく他の者に倣って吐き出す。
やがて恐ろしき情報を得る。スイカの種を飲み込むと、臍から芽が出るというのだ。芽を千切っても根は腹に深く残ろう。その肉体の内部から絡む根が養分を吸い取る。さらなる養分を求めて、白い根は更に伸び、更にきつく食い込む。ああ、おそろしや。助けてくれと叫ぶも声に力入らず、私は腰の抜けた身体を引きずるようにして逃げ出した。
私にもそれなりの常識と教養があったのでこの話を信用しきったわけではないが、肉を貫き脂肪を穿ち内臓に根が絡んだ妙に生々しいヴィジョンは、理屈では拭いきれない不気味を抱えており、種を吐き出す行為に慣れざるをえなくなったのである。

葡萄は大粒より断然小粒が好きだ。小粒のほうが味がよい気がするし、何より大粒には種があって食指が伸びない。蜜柑もそうだ。

アケビなんか話にもならない。あの黒い小さな種といったら!


このまま捨てるには勿体無し、さくらんぼを食べる。
歯を当てると柔い果肉を内側に溜めて、薄皮が精一杯の反発をする。これは子供のころに食べたグミの実の感触と似ている。皮が破れると少しグレープフルーツに似た味が漂いつつ、しっかり「チェリー味」がした。味は嫌いじゃないことを再確認する。万に一つでも臍から芽が出ることを恐れて、種は出した。ぬろりと薄く果肉が絡んだ種は、やはり不気味だった。
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08/07/06

久しぶりに書いたはいいが、データが全部消えてしまったらしく泣いている。みんな俺の生き死にに興味はないので仔細ないわけだが、独力でダイエットするのが難しい人たちを集めて、ダイエット合宿を行うって番組があったじゃないすか。10年位前にどっかで。ほら、あれよ、どっかの山の中にある、ダイエットを目的としたペンション?でやるやつ。ここの親父が運動メニュー作ったり、減量食を作ったりしててさあ。スウェットスーツ着てジョギングやったりストレッチやったり、お腹空いたのに食事が制限されたり、わりとキツイところで、指導役の親父も嫌なら帰れ的な奴なの。確かついていけなくて実際に帰った奴もいたような気がする。
ある日、厳しいメニューに耐えて頑張っていた男が体の痛みを訴えて、医者に診てもらってドクターストップがかかっちゃってさ、山を下ろされちゃったのよ。急激に大量の汗をかく生活に、汗腺が詰まっていたんだか詰まったんだか、汗が体外に出し切れなくなっちゃって、皮膚の下に水が溜まる症状が出ちゃってアウト。何事もなかったかのように番組は進むんだが、おれはあの親父のやり方に問題があったんじゃねーかって今でも思ってるわけよ。トレーナーの資格ないんじゃないかって。
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2008年06月25日

今週の質疑応答


・苦手なものを教えて (匿名)





「こらー、風紀を乱す不良生徒め!」
「げっ、あれは生徒会風紀委員の2年1組出席番号第8番、早乙女律子だぁー!」
みたいな、アニメ及びマンガの人物紹介台詞。お約束といえばそれまでかもしれないが、たまらなく恥ずかしくて見てられない。
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2008年06月10日

08/06/09

何を書こうと思っていたのか、すっかり忘れてしまった。
とりあえず、幽霊はいる、らしいのだ。
出るところには出てる。
やっぱりね。

何を書こうとしていたのかまったく思い出せない。


ディアボロの大冒険、新バージョンβ版あがる。
キンクリとエピタフの共鳴が嬉しい。
バージョンアップが近いと知って、この一月くらいはちょこちょこと起動させ、念願のエアロスミスを天国61階で強奪。主要装備アイテムは一通り揃えた。
ホテルに帰って裸一貫の外出。数回死んでクリア。
試練に赴き死に続ける今日。
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2008年06月04日

08/06/04

眠いのに眠るのが億劫なのは、私だけだろうか。
まだ起きていなくてはならないのにうとうとと眠りこけてしまうのは、とりかえしがつかないだけあって実に気持ちがいい。
しかし、寝なくてはいけなくて寝るというのが苦痛だ。無理に寝なくてはいけない状況の話ではない。体は適度に疲れている。眠気もある。寝る必要もある。
寝付きはいいから、横になっていればそのうち寝るのである。しかし、その眠りにつくまでの時間へ、どう対処していいのかわからない。無防備にしていればいいと、理屈ではわかっている。今すぐ横になって毛布をかぶってしまうだけでいいのに、それだけのことがひどく面倒で、眠いのに寝られない。
だから起きている。やがて眠気は頭痛を伴う。側頭部が痛む。うっすらと不快感がこみ上げてくる。目の奥が痛くなる。それでも横になれない。鈍痛が脈を打つ。
眠るまで。その時間を考えると不安になる。眠りにつくまで何を考えればいいのだろう。何をすればいいんだろう。何もすることはないし、何もしたいことがないのだ。何もないことに、ただ耐えねばならない。
考えれば考えるほどに恐怖が高まる。苦痛に耐える。頭の体も動きが鈍る。
眠気と頭痛に際限はなく、貧弱な精神はやがて倒れる。耐えられなくなってとうとう横になり、毛布をかぶる。まどろみは不快感と交じり合い、境界をなくす。それはまさしく泥のよう。自分が重い泥になる。落伍者の私は、人間でいることを維持できない土塊なのだと暴かれる。それは単なる事実の提示か、罰か。
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2008年06月03日

08/06/03

一汁一菜を粗食というが、私の食事は一汁一菜ならば上出来で、朝に焼魚と味噌汁がある程度。基本的には一汁or一菜。それも凝ったものは作らないし、買わない。
一人暮らしを始めてからずっとそうである。朝以外でおかずが二品以上あるのは、月に一度あるかないか。だから自炊生活は長いのに、料理は何も出来ない。

両親は私が肥え太るのを構わず、むしろそれを善しとした。中学二年当時、身長は前から三番目程度だったが、体重は七十キロで、小太りとデブ境界線にいた。痩せろといわれたことはない。
実家での朝は焼魚に味噌汁、玉子焼きが基本で、他に一品か二品つく。食後には林檎が用意されることがある。
晩には三人家族の食事でテーブルがいっぱいになる。土日ならばテーブルに乗り切らないことは珍しくない。両親は太っておらず、母はどちらかと言えば小食であろう。
裕福な家庭ではなかったが、日々の食事は重要であるとして食費を惜しむことはなく、バランスのある豊かな食生活であった。


実家では母が食事を拵えてくれたが、一人暮らしを始めると食事の裁い量は私に任される。最初は実家の余韻と一人暮らしの高揚で、あれこれと料理に手をかけ、たまには外食もしていたが、すぐに止めた。そんなに食べなくてもよいことに気づいたのだ。
そして今のような租食になった。粗食といえば響きは清いが、私のは単に粗末なだけである。
この選択が貧しいことにも起因するのを否定しないが、選択理由として私の意識を大きく占めていたのは、自分自身への劣等感であった。
私は今日までひたすらに無能であった。即ち明日からもそうである。何の取り柄もなく、愚行ばかりを積み重ね、醜く恥ずかしい存在でいる。だから他人に自分を語れない。それでも上辺だけ取り繕おうとして、無様である。中身がない。先がない。
こんなに劣った人間は、大したものを食べなくていいのだ。本当は生きていなくてもいい。
粗食は抑制されるのではない。自然なことなのだ。
私はこれを卑屈と思っていない。これは紛れもない事実だからだ。事実の否定こそ見苦しい。
今ではいちいちこんな理由を考えてはいないが、貧しい食事は習慣となって現在に至る。

しかし、ここまで大見得を切っておきながら、まだまだ劣等人間である自覚が足りないようで、誰かと食べる時にはもりもり食べてる。勿論、食べに行って、私だけ持参したおにぎり一いや個を食べていれば失礼であるのはわかっているが、それを理由にもりもり食べているわけではない。私自身に租食を課すのが自然であるように、食べに行ってもりもりもまた自然なのだ。両者に葛藤はない。矛盾も感じない。自分の取り決めに他人を巻き込むべきではないとでも思っているのだろう。それに租食と雖も量はあるので、痩せ型になったことがない。


もりもりと食事をしながらチエコにこれを話すと、寸鉄を刺すようなことを言われた。この程度は予期していたことだ。私の考えは歪で卑屈で、本当の意味で醜く恥ずかしい。
私は付き合いが長くなると、不意に関係の維持がどうでもよくなる。壊したいわけでもないが、意識的に力を注ぐ必要を感じなくなる。思考を放棄する。弛緩する。防御が疎かになる。それどころか打ち込みをわかっていて身を晒す。それでいて相手の寛容を諦めきれない。正気に返って後悔する。
チエコは無言で、自分の皿から幾らかの食べ物を私に寄越した。こんなことは初めてだったので少し驚いたが、有難くもりもり食べた。なんていい奴なんだろう。ちょっと惚れそうになった。
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2008年05月31日

個人的不味い!

私の「不味い!」を幾つか思い出したので書いてみよう。


その一。小学生のときにベルトコンベアの導入はないものの、高級ではない寿司屋で食べたいくら丼。
不味いのとは少し違うかもしれない。その店では少々値の張る一品だったと記憶している。いくらは大好きなので、わくわくしながら頼んだはずだ。外は黒く中は赤く塗られた器に、御飯が隠れるほどいくらが乗って、醤油がかけられている。いくらを一度にこんなに食べるのは初めてだ。スプーンで食べたと思う。ぱくり。うまい。
しかし半分ほど食べたところで、店と同じくいくらもあまり高級ではなかったせいだろう、私にしては珍しく気持ちが悪くなってきて、後ろ髪を引かれるような思いで残してしまった。妙な甘さが濃かったような気がする。

似たもので、とろろかけ御飯も最初の一杯は美味しいのだが、二杯目を食べると気持が悪くなってしまう。


その二.地元スーパーのイベントにて無料で貰った知らないメーカーの見たこともない袋ラーメン。
このラーメンは塩味だったと思う。袋は作為的ではない感じのレトロなデザインで、今思えば賞味期限が怪しい。当時のおおらかな世の中ならば、ロハで期限切れを配っていても不思議ではない気がする。
私は拘りも見境もなくラーメンが大好きで、スープも残さず飲んでいた。当然美味を期待して箸をつけたのだが、びっくりするほど不味くて食べ切れなかった。どのように不味かったかは覚えていない。当時は本当にラーメンが好きだったし、スープも残さぬのを小さなプライドにしていたのだが、
それでも食べられなったのだから、そうとうなものだったはずだ。
現在では年のせいかラーメンを前よりは美味しく感じなくなってしまって、胃がもたれることもある。それでもあんなにラーメンを不味いと思ったことは他にない。


その三。中国物産展で買ったピータン。
卵料理なら見境なく好きだった私は、父の買った黒いピータンを前に尻込みした。何故か食欲をそそられない。一口食べて、二度と口にしなかった。本来ならスライスして少し空気にさらしてから食べるところを、それを知らずにすぐ食べてしまったのだと思うが、今でも一生食べたくないと思っている。


その四。京都の某格安ホテルの朝食。
価格の安さから、若い旅行者には有名なホテルらしい。見事なまでに部屋は狭く、大浴場という名の中浴場があった。朝食は一階の食堂とは名ばかりの、これまた妙に狭いバックルームのような場所で、決められた時間に全員揃っての気まずい食事だった。二台のテーブルをくっつけたものを囲んで、知らない連中と肘をくっつけるようにして無言の食事。逃げ出したかった。
朝食内容は、御飯に鮭の切り身、味噌汁、納豆、海苔だったと思う。不味いとは言わぬ(私はそう簡単に不味いとは思わぬ性質)が、決して美味くなった。味気ない。何の面白味もない。ちょっと泣きたくなった。


その五。大阪のとある食堂。
道路に面した庶民的な外観の店であった。年季の入った赤い暖簾が、ベテランの風格をみせる。
新今宮駅から近いところだったはずだ。この土地を知っているものなら何かしら感じるものがあっただろうが、いくらか話を聞いていたとはいえ私には初めての土地で高揚しており、気取った店ではなく、土地に馴染んだ店で何か食べようと気取ったのが間違いだった。店外にメニューが出ていてどれも全体的に安いなか、特に玉子焼き定食が驚くほど安かった。その価格の記憶に自信がない。350円だった気がするのだが、これはほんの10年ほど前の話である。
味に期待したわけではなく、こんなに安くてどんなものが出てくるのだろうと好奇心をそそられたわけだが、無愛想な中年女性が運んできたものを見た途端にがっかりした。
御飯、玉子焼き、その下に敷かれたレタス二枚、味噌汁。
その名が冠された玉子焼きは、多分メインを張るには最低限の量しかない。少量の料理に大きく余った皿の余白を魅せる高級料理とは違って、この定食の主役を乗せた白い皿は、ただみすぼらしく地を見せていた。
あとは味で勝負だ。玉子焼きなら誰が作ってもそこそこの味になる。一口食べた瞬間、350円を溝に捨てた! と思った。妙に味が薄い。何だか寂しい。味噌汁も味が薄くてちっとも美味しくない。味噌汁なんてのはただ味噌を溶いて熱々で飲めば、私が作ったのでさえ美味しい。それがなぜこうも無感動な味なんだろう。これは病院食か。
御飯にも何の魅力もなく、ぼそぼそとしていたように思う。一番美味しかったのはレタスだった。うれしいマヨネーズ付。
醤油で味をごまかしながら、寂しい気持ちで食事を終えた。安物買いの銭失い。会計をする私は悲しい顔をしていたと思う。
大阪には一泊した。田舎者の私には、驚きの連続となる一泊であった。


その六。イレイザーヘッドを観ながら食べた昼食。
イレイザーヘッドはビデオで何度も観た映画で、観るだけあって好きな映画なのだが、おたふくの女が天井から落ちてくる大きなヒルのような何かを次々と踏み潰す(それも少し恥らって)場面だけはどうにも気持ち悪くて、何度目かでこれを観たときに食べていた昼食がすごく不味くなった。
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2008年05月23日

赤い眼鏡にゃガッカリだ。

「騙し絵がこわい。だって、描かれたものが別のようにものに見えるんだもの」というのは、エッシャーらではなく、回ってみえる模様、うねるストライプ、そういうので、それだけ聞くとちょっと笑ってしまうが、その後に続く「騙し絵は本当はどうなっているのかわかる人がいるから騙し絵とみんなわかるが、世界中の誰も騙し絵だと気づかない何かがあるかもしれなくて、こわい。視覚を騙すのみでなく、五感のすべてを。そもそも騙し絵の『本当』を誰がわかるの。だっていくら専門家がみたことで、それは錯覚して見えているわけで」まで聞くと、なるほど理屈のある恐怖だ。「宇宙人も、実はそんな騙し絵的に存在しているのではないか。例えば人間にはアイスの棒にしかみえないように」。本人の病的な理屈馬鹿性格が色濃く投影されてる発想で、と書くとそんなに理屈っぽい話かなと思うだろうが、ここに書ききらない彼のあらゆる話を聞けばあなたも理屈馬鹿の病気がわかるはずだが、そこまでの労を執らないことを容赦願いたい。騙し絵を入り口にして彼の言動そのものを俎上に載せたいのだ。これをただの病気と一笑に付す者もいる。それは彼個人へではなくボーダレスアーティストのような『異常』一般にあることで、さあ、注釈が長引いたせいで体感的には急展開、彼の騙し絵観から彼自身に話を広げたところでもう彼個人をも離れてしまった。例えば草間彌生がその精神疾患故に芸術であることを認められなかったように。ここではたと思い当たったのが、太った男が落語で客を笑わせているつもりが実は太っていることを笑われていると気づいて落胆した話を聴いた談志が、それでいいじゃねえか太っていることで笑わせろ。話は返って、あの理屈馬鹿の病的な話を聴いて笑う私は太った落語家のデブを笑っているところなのであった。それでいいじゃんねえ。色川は自身のエキセントリックを気に入っていたがそれが病気の副作用と知って落胆した。病気もその人のうち、狂人であることはあんたの手柄だと読みながら思ったがその時談志のことなんか頭に入れちゃいなかった。なぜこうも談志談志と引き合いに出すのかというと、当時それを頷くことは頷いたんだが、じゃあ俺がその理屈でデブを納得させられるかというと出来そうにないと思いました。そりゃあデブで笑うよ、笑うけれどもデブの本業は噺家で、噺で笑うってのが本筋じゃない。ねえ。それを、ああた、デブのほうは噺で笑わせにかかってるンですから。内心、デブで笑うってのは違うんじゃねえか談志、と思って黙ってショートケーキにも手をつけず。それがちょうど十年前の事で。それからちょうど十年後の今日の晩の事。理屈を考えるより先に俺は今も昔もデブで笑っていたと急にわかったんでさ。やっぱデブで笑って笑わせて、それでいいんじゃんねえ。芸と芸人は不可分じゃと、人間と、人間と対比させた時には何を当てはめたらいいかわからんから、やっぱ芸と芸人にもどって、それはね、不可分なんだと、先に感触がわかっていて今その論理を芯から承知した気がする。考えれば考えるほど当たり前なんだよなァ。誰が芝浜やっても同じではないのは、単に技量に差があるんじゃなくて噺家の色が違うんだよねえ。デブがやったらデブじゃないやつのとは肉の動きが違うし、いくら病気の作用だろうと、それを面白く料理できるのは本人の手柄だし、そいつのどこまでが本人でどこからが病気なのか明確にすっぱりわけられりゃしねえんだから。わけたところでそれがどうした、いつでもどこでも御一緒なさる。しかしデブで笑わせろって談志が言ってるってところに味がある。落語は人間の業の肯定なんだっていう談志の持論にピタリとくるじゃねえか。そういや色川が芸人みてたのもそういうことで、自分と同じ人間が出てる安心感があると。ああ、腹が減ったよ。何を食おうか。(夜の街へ消える)
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2008年05月21日

かく闘えり

まだ小学校にあがる前の一時期、あれは忍者ごっこの一環だと思うが仔細を忘れた。
最初に自分の変身能力を自己申告する。
ある者がこう言った。「むげん!」
またある者もこう言う。「おれも、むげんね」
やはりある者もこう言った。「むげん」
皆こう言うのである。
即ち忍者たる自分の変身可能な対象は、無限にあると申告しているのだ。
飛行機、車、たっちゃん、じゅんくん、すべり台。虫も獣も何でもござれ、見事変身仕る。
これでどう遊んでいたのか、記憶は忘却の彼方に在る。

私も最初の数回は、負けてはならじと「無限」と申告したのだが、回を追うごとに漠然とした不安を強めていった。無限という数は本当に存在するのだろうか。私は具体的な無限を知らない。無量大数という単位なら知っている。しかし、無量大数も怪しい奴だ。単位として形式的に作られただけで、実際に「何か」が無量大数もあったのだろうか。量を認識するために生まれたのが数という概念なのに、その本懐を飛び出して、悪戯に作られた、存在が確認されていない量を示す無用な単位。それが無量大数なのではないか。
私は知の傲慢に息苦しさを覚えた。そしてむげん主義者たちを軽蔑した。奴らは無限とは何かろくに考えもせず、主体性の無さと対抗意識でむげんを連呼しているに過ぎない。彼らの変身はいつも十種を超えぬ程度で、無限の活用も必要もないのだ。

私はこの息苦しさを解消する手段は、誠実しかないと考えた。
自分が本当にその存在を信用し証明出来得る範囲の数で、申告しよう。本当は変身能力なんて二十もあれば足りるのだけれど、相手は不逞の輩なれば油断は出来ぬ。私が認識する最大の数で挑もう。
百、二百、三百。まだ少ない。最も大きい数は何か。実在する最も大きい数とは……。

決戦の日は来た。
「おれはへんしんできるの、むげん!」「おれもむげん!」「むげん!」
嗚呼、今日も青い空の真下で、誠実さのかけらもなく笑っている奴がいるよ。
彼奴らに、これまでの私の惰弱に、反旗を翻す。虚妄蔓延る忍者界に今こそ実存の革命を起こす。
私はきっぱりとこう申告した。
「二千」
持ちうる限りの最大戦力で仕掛けた。名目上、無限には劣るが、これだけの能力が在れば実戦で不自由することは無い。第一、敵のは所詮迷信のような戦力である。私の実体の伴った戦力の前に、重みある真の数字というものを知って往ぬがよい。
滅びよ。

ところが相手は誠実さどころか、知性のかけらもなかった。
「にせん!」「にせんだって!」「たったにせん!」
己の立場も二千の大きさも理解せず、嘲笑を浴びせたのである。知性の光届かぬ暗愚の様態に、窮地に陥った私は怯んだ。そこを衝いて、結託した蛮族どもは理不尽な要求を突き付けた。
「にせんしかへんしんできないやつは、木にしかへんしんできないことにするね」
自己申告した数がそのまま変身能力となる忍者界の掟を、根底から覆す暴論である。いくら愚かであろうとも、奴らも忍者の端くれだと思っていたのだが、ここまで堕落していたのか。
無論、徹底抗戦である。これ以上奴らに忍者を名乗らせるわけにはいかない。皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。
私は気力を奮い立たせ、この魔境を敵陣に吶喊した。

 ――――まぶしいほど、青い空の真下で。



 
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2008年05月15日

08/05/14

私は死刑そのものに賛成(現制度を変えていいと思っている)で、反対派の理由に納得できないのがいくつかあり、そのひとつは、そもそも人を殺してはいけないから死刑は駄目だという倫理(?)だ。
人間であるというだけで、何をどれだけやろうと殺してはならぬほどに尊厳というのがあるのだろうか。人間は自分の都合で他の生物の命を奪いつづけるが、人間の命だけは絶対に死守しなければいけないのだろうか。ただ人間に生まれてきただけで、絶対的に命の保障をすべき特権階級なのだろうか。他の動物には同族殺しをするものがある。
内緒にしていたけれど、私は人間がそんなに尊いものだとは思っていない。(05/17追記:どんなに罪があろうとも死刑にはあたらぬほどに尊いとは思わぬ」の意味です)
暇つぶしに手当たり次第10人殺した人が死刑を宣告されて、「そりゃないぜ」って言っても、お前はそれ以上のことやってるじゃねえか、なんでお前が殺されるのがダメなんだよう、って思う。
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2008年05月13日

08/05/13

誰が確認をとるわけでもなく、集団内の人物の位置づけが無言のうちに決定されていることがある。
同じ小学校のC子さんは、クラス内で「オシャレでちょっと可愛い」とみなされていた。でも今思い出してみたら、そうでもない。

MOTHER2というRPGゲームに、「そまつなパン」という体力回復アイテムが出てくる。あっても困らないが、なくても困らない。大して回復しないし、持てるアイテム数は有限なので、むしろ実用価値がない。ただ、非売品でふたつしか手に入らないし、名前が面白く、コレクターアイテム的価値がある。MOTHERにはこの手のアイテムがたくさん出てくる。
ゲーム内にこのアイテムの画像は出てこない。でも、今思い出してみたら、C子さんはそまつなパンみたいな顔をしていた。そこで改めて評価してみると、彼女は「キッズなオシャレのそまつなパン」だった。

人物の死後、再評価が行われ、生前と逆の評価をされることがある。
それは、こういうことなのだろう。
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08/05/12

書きたいことはあるが手が進まない。手が空いてるときには書きたいことがない。


生涯に於いて、他人と会話した時間より独り言の時間のほうが長い。


戦車の紹介をしているのかと思ったら架空戦記だった。
<大韓民国の国防力>世界最高の戦車“黒豹
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=99851&servcode=500§code=510


そういえば半島が統一されないのは、韓国に中国との緩衝地帯を求める声が増えたのが一因とか。
中国が怖いのは今に始まったことではないのに、と思う。
統一に背を向ける韓国――恐中論が加速(2007/2/14)
http://www.nikkei.co.jp/neteye5/suzuoki/20070213n5a2d000_13.html


サイバラの近所に福本伸行が住んでいる。
http://ameblo.jp/saibararieko/entry-10096101638.html


こわれ者の祭典のイベントタイトル(?)に「ストップ!硫化水素自殺」。
巻き込み事故防止を訴えて自殺自体は否定していないのかと思ったら、そうではなかった。
じゃあ「ストップ!自殺」でいいじゃないすか。硫化水素は手段であって、目的は自殺で、手段はほかにもあるのに、硫化水素にストップをかけても、ね。
http://koware.moo.jp/
私も自殺したいといえばしたいのだが、「こわれ者」に列記されているような強いハンデを抱えていないせいか、この祭典に近寄りがたい。ああ、そもそも参加資格がないのか。(引きこもりの気はあるんだが)
そういえば「だめ連」もどこか嫌だった。
落伍者仲間は欲しいのだけど、自分のことはあまり話したくないし、引きこもりの性分だし、無理か。


長机に椅子が12345と並んであり、2と5に人がいて、何も考えずに3へ座った。
2の人が用を済ませるために一旦席を外した。戻ってきて座ったのが1の椅子。
……。
この心のざわめきは、被害妄想だろうか。わかるんだよ。わかるのだけれど。
2は若い女性だった。


なぞなぞ。まずいけどうまいものって、なーんだ。
こたえ↓
・減量中に意思の弱さから食ってしまうもの
・愛情のこもった料理(モンモンモン思い出したので追加。モンモンは大好きな漫画だったが、周囲に理解者がI君ひとりしかいなかったため、寂しかった。I君とはサルコップやめがねマンの話で意気投合し、後にマキバオーでサンダーボルト死去の報を知ってその思い出を語った。本格的に面白くなるのは2巻からだと思う。マキバオーも同様。単行本書き下ろし最終話には泣いた。)
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2008年05月10日

08/05/05

母が実家で採れた苺を置いていった。
摘んだままを袋に入れてあり、土がついている。
食べる直前に洗いなさい。水に濡れるとすぐに傷んでしまいますからね」
知っている。母はいつもガスの元栓や戸締りについてもわかりきった注意をしてから帰ってゆく。こちらが承知しているのを承知したうえで、それでも何か言いたくなるのだろう。黙って頷く。

親の知り合いの苺農家某氏は、ケーキに乗った苺が食べられないという。
苺は水に濡らすとすぐに傷んでしまうのに、何日もあんなに綺麗でいられるのには必ずしや何かの薬剤を使っているはずで、不気味である。他の食品でも使われていること、人体にさして影響が無いだろうこと、知っているけど我は苺農家なり、こと苺だけは御勘弁を。人情である。

「これはね、ハッシュドビーフというのよ。ハヤシライスやビーフシチューみたいなもので、御飯にかけて食べてもよいのです」
母はタッパーにいれられたそれを鍋に移し、タッパーを洗って持って帰った。
こちらがハッシュドビーフを知っているのを承知したうえで、それでも何か言いたくなるのだろう、と思って、黙って頷いた。
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2008年05月08日

08/05/07

いつでも心穏やかに死ねるようになりたい
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2008年04月30日

08/04/30

ヨーロッパの、古風な建築技術を大事に、現代技術がその調和を崩さぬようにゆっくりと忍耐強く浸透しているが、決して主役に取って代わろうとせず、威厳と優雅を感じさせる、紅茶のような色合いの街であった。
時間が緩やかに流れている。人は多いが、混雑はしていない。私が褐色の肌をした友人と共にいるのは、緩やかに広い階段の上、ホールの出入り口前のような場所。街の案内板がある。都会の一角だ。
ホールを背に、目の前の高い建物は弁護士事務所である。ホールと弁護士事務所に挟まれた太い道路を右へ進んで、突き当たった道路を左に曲がってあるのはオペラハウスだ。傍には広い公園がある。

私らは知っている。直にこの街で始まることを。
既に予兆は現れている。人々の中に、人ではないものが混じり始めた。黒い球体を頭に、それより小さな球体のパーツを太い線で繋いだ生物。突き出た目を持ち、触手を蠢かせる紫色の生物。常人の2倍はあろうかという背丈の細長いのっぺらぼう。他にも一目見てわかる異生物。これらは全部宇宙人である。今はまだ始まるのを待って人々の中で時間を潰している。
MOTHER2みたいだと、私は静かに興奮している。もうすぐ始まるのだ。

人にも街にも何の変化もないが、それは合図もなく突然始まった。
まずは役に立つ道具をそろえなければならない。私と友人は捨てられた机の引き出しから、何か大層な名前のついたコンパクトを五つ見つけた。ああ、これは光を反射させて敵の目を眩ませるものだ。これで戦闘の援護ができる。五つとも持って行こうとしたが、友人が二つでいいという。荷物にはまだ余裕があるのに。
別の引き出しからは、同じくコンパクトのような開閉式の何かが出てきた。
液晶画面とたくさんのボタンがついている。操作してみる。
これは大変なものを拾った。これには宇宙人の言葉を翻訳する機能があるばかりか、敵の名前やHPなども表示される。友人とひとつずつ持つ。

あとは強い敵を避けつつレベルアップだ。武器や防具も要る。まずはどのあたりから進めればよいか。思案していると、スーツを着た背の高い黒人が話しかけて来、オペラハウスがどこかと英語で訊いてくる。オペラハウス。あのあたりにあったはずだ。しかし私には英語が話せない。面倒なので直接連れて行くことにした。人助けはRPGの基本である。
拳が胸の前に来るように私は右腕を、友人は左腕を曲げて、その両腕に黒人を座らせ、輿を担ぐように歩く。重くもなく軽くもなく。
階段を下りる。友人が口を開く。
「オペラハウスには週に一度は行くんだよ」
へえ、意外だな。
「家族で行くのさ。俺がオペラで興味あるのはツィギーだけなんだ」

道路を渡って、青々とした芝生が豊かな公園を歩く。緑のまぶしい木々。ベンチと噴水がある。広い。この街が威厳を放ちながらも優しげなのは、この公園があるからだ。人々が思い思いの格好でくつろいでいる。

そこに見るからに柄の悪い集団がいた。蹲ったひとりを、何人かで蹴っている。戦うには危ない集団だ。蹴っている男のひとりがこちらに目を向ける。ナイフで突き刺してきた。ナイフは黒人の左腕に刺さるが、黒人はその瞬間右腕で男を殴り飛ばした。さすがNPCは強い。
しかし相手が多く分が悪い。私は黒人を腕から下ろし、黒人は集団へ果敢に立ち向かって行ったが、次々とナイフで刺されて動かなくなってしまった。
勝てない。逃げよう。棒の先にナイフを括りつけたのを振り回す婦人が追ってくる。その刃先を掻い潜るようにして私は走った。取りあえずあのスタート地点へ。そして、まずは、弱い、敵を。
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2008年04月21日

08/04/21

稀に見る大出血。それでいて軽く脱水症状。


大空真弓がシャブ中息子3度目の逮捕で「もう一度産み直したい」と云っていたのを、誰かが寺山修司みたいだと云っていたが、それが身毒丸だと今気づいた。すっきりした。

お母さん、僕をもう一度妊娠してください」
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2008年04月20日

08/04/19

ぜんぜんだめです。
頭が熱っぽい。体が寒い。原因に心当たりはない。
熱を測ると、37度5分あった。
カレーラーメンを食べるかどうか迷っている。
体調不良のせいか、パイレーツオブカリビアン(初見)があまり面白くない。大砲撃っている場面をみていたら、モンティパイソンのビルが船になっているのを思い出したよ。


北京五輪の話題に事欠かぬ毎日である。私も関心を寄せて推移を見守っているが、そろそろ気になりはじめているのは、パラリンピックだ。開催地はもちろん北京だし、こっちも聖火リレーをやる。なのにちっともニュースで出てこない。
(関連を強いてあげれば、パラリンピック聖火リレー中の車椅子走者に暴漢がってニュースくらいで、しかも中国側の工作疑惑がある。)
パラの動きにメディアが無関心なのか(というのも白々しい問いで、大手、特にテレビメディアは障害を感動させる素材くらいにしか使ってない印象が強い)、パラリンピック・並びにその応援者側自体がチベットにほとんど無関心なのか。


伊集院光がラジオにて、昔に比べてモザイクの基準が甘くなった、今では女優の尻の穴にモザイクがかからなくなった。でも、尻の穴なんて見たいか? と語っていたが、これは伊集院が異常なだけで、見たいよな、みんな。俺だって見たい。
みんなだって理想の女の子の条件のひとつは、「あ、あのね、ひとりでするときに、お尻の穴もいじることがあるよ……。こ、こんな変態でごめんね! 嫌いにならないでね! ううう、恥ずかしいよぅ……。」っていう、アナルに恥じらいと快感があることだろ。
やっぱ男の誰もが思う女の子の可愛い仕草のひとつは、尻の穴をいじっているところだよな。
エロを抜きにしても可愛い。眺めていたい。抱きしめたい。でもスカトロまではいかない。
もう一度言う。
お尻が好きな女の子は、本当にかわいい。


時間帯によって表示が違うのかもしれないが、上部バナーを見よ。
http://blog.seesaa.jp/
魚拓もとってみた。
http://s01.megalodon.jp/2008-0420-0136-01/blog.seesaa.jp/

みんなでマラソンがみんマラなら、トニービーンとマラソンならビンマラじゃないですか。トニマラじゃないのなんていう屁理屈は認めません。あえてオブラートに包んだのです。はっきり言いましょうか。

デカマラ!

こら、落ち着けって、違うって。私はデカルトとマラソンと言いたかっただけなのだ。それがこんな卑猥な単語に。こういうのやめましょうよ。中学生のときに読んだ性教育の本には、5センチあれば女性を喜ばせる事は可能ですって書いてあったもん。伊集院光はリスナーに性器のサイズを報告させる企画をやったときに、自身のサイズは言明しなかったものの、最大値11センチは普通って力説してたもん。大小なんて、ぜんぜん気にする事ではないのです。

ついでにこのブログに集う乙女たちに、男が求める理想の女の子の条件をもうひとつ教えようか。
それは、「サイズや被っていることを気にしない。むしろ被っているほうを好む。」
これが何を指した話題なのか、今はわからなくとも、いずれわかる日がやって来る。なんなら私が直接教えてやりたいくらいだ。
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2008年04月16日

08/04/15

行きつけの漫画喫茶には、缶やペットボトルではなく、使い捨ての紙コップに飲み物が注がれて出てくる自動販売機が無料で飲み放題になっていて、私は氷抜きのカルピスソーダを飲もうとボタンを操作し、自販機の作業が終わるのを待った。
自販機が音とライトで作業完了を知らせる。
すると、近くの本棚で漫画を選んでいた十代後半らしき女が急にやってきて、取り出し口をあけてカップを取り出そうとするではないか。「ごめん、あの、それは私の」と言いかけて、息を呑んだ。取り出したカップの中身が滑らかな緑色をしている。注ぎ口にはカップがもうひとつひっかかかっている。
事態が飲み込めた。この女が取り出さないうちに、私が操作してしまったのだ。
女は一瞥もくれず、無言でカップをひったくるようにして、急ぎ足で仲間のいる席に着いた。仲間らと飲み物の色がどうだとか言っている。
私はしばし呆気にとられたあと、考えてみた。どういうことだろう。私が悪いのか。いや、そんなことはない。終わるまで自販機の前にいなかったあの女がどうかしている、はずだ。本棚の前にいただろう、お前は。なぜ一言もないままに、あれ、俺は最初に「ごめん」って言ってしまったぞ。なぜそっちからは一言もないのか。それは俺が悪いからなのか。俺が確認しなかったからなのか。いちいち確認する仕様じゃないだろ、これは。何でそこで笑っているのだ。俺が笑いものにされているのか。俺が悪いのか。確かに俺は気持ち悪いけれど、それとこれは別件だろう。何なのこれは。
私は取り出し口にひっかっかっていたカップを捨て、改めてカルピスソーダを得た。
席についてそれを飲んでいると、羞恥心と屈辱感と敗北感に身が打ち震えた。俺が不恰好だから笑っているのだろう。俺に責任を全部押し付けて笑っているのだろう。
そのあと私がどのような行動に出たかは、皆さんがニュースでご存知のとおりです。
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2008年04月13日

08/04/13

したいことはできなくて。
最近は何かにつけ、この言葉が頭に浮かぶ。出典は色川の怪しい来客簿のひとつで、亡き友人を著したもののタイトルである。あれもこれも、思ってはいるのだが、思ってはいるのだが。

結局のところ、彼の本意は、固い表皮におおわれすぎて陽の目を見ないで朽ちてしまう。したいことはできないし、できることはしたくない。
他人事ではない気がした。



・・・・・・


桜は好きだ。咲くのも散るのもいい。
その花に惹かれて宴を開くのもわかる。風流でいい。
しかし花見は好きじゃない。
桜の並木道があって、夜中にそこを通ると、ぽつぽつとごみが落ちている。
この道にはこの時期だけ、臨時のごみ捨て場が設けられており、ごみが山と積まれている。
ごみを放置していくなどもっての他だが、自分で用意したものを持って帰らぬというのも好きではない。
ごみ捨て場を設置しなければ、ごみの散乱更に酷しとわかっているが、ほれ、一日の宴が済んで堆積された、桜と同じ風景にあるごみの塊をご覧になられよ。これで何も感じないというのなら、桜なんか見に来ないでくれ。花見だなんて口実で来ないでくれ。私の私有地でもなければ権限もなく、自分でごみを拾うわけでもないのだが、夜中に歩いてそう思う。
桜の木の下に、一つと言わず、いくらでも屍体が埋まっていてかまわない。
でもねえ、無粋なあれらのごみでは、桜は咲かないのだよ。
毎年私が見る桜は、人工の色気ない光に浮かぶ夜中の桜で、いつもごみが付き纏う。
ごみの量と訪れる花見客の量をみれば、一部の仕業と知れるのだけれど、その一部は確実にそこにいるのであるし、また一部には無礼講をどこまでも無礼でいいと思っていそうな空気があって、それらがまとめてひっくるめられて、花見が好きではない。
要は人である。屍体ならいい。生きている人間が邪魔なのだ。
ひとりになりたい。
何者の痕跡もなく。
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2008年03月31日

生きているのが嫌になった夢

好きな女がいる。彼女はいくらか精神を病んだのと、純粋に私への興味を失ったことから、私を避けていた。
しかし今日は共通の友人を3人交え、私の車で遠乗りすることになった。彼女の調子はよいようで、友人らと笑いあっている。
食事を終えて、海の見える映画館へ行った。そこで私は近日公開の気になる外国映画をみつけた。面白そうではないものの、彼女とそれを見たくなって、後日一緒に見ようと誘うと、彼女はいつかのような笑顔で頷いてくれた。
彼女は窓口へ、自分の分の前売り券を買いに行った。
その後少ししてから、私も前売り券を買った。しかし券を見てみると、それは別の映画の券であり、窓口へ取替えにいくと、手違いで目的の映画の券が用意されておらず、間違って別の券を渡していたことがわかった。
もしやと思って彼女の元へいくと、彼女は券を間違っているばかりか、同じ券を何十枚と買い込んで、束になったそれを細く巻いてぎゅうぎゅうと握っているのだった。
私は足元にひびが入るのを感じた。
戸惑いながら彼女へ、券の交換と払い戻しをしてもらおうというが、彼女は慌てたような困ったような顔をして友人の陰に隠れ、座り込んでしまった。
私は彼女が破滅的に狂ってしまったのを知った。彼女はこの先の一生、心の休まることがない。常に戸惑い、怯え、有効な対処ができないまま暮らしていくのだ。拒絶された私に手助けできることは何もない。私の存在は彼女にとって、ただただ嫌悪と恐怖の対象でしかなくなってしまったのだ。
絶望と無力感で足元が崩れ落ちていく感覚に襲われ、私は身動き出来ない。
この段になって何故か私は、この映画館が、高い崖の先に建っていることに気づいたのである。
崖の麓を波が洗っていた。
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2008年03月29日

傑作の幻影が彼のうすつぺらな胸を騷がせては呉れるのであつたが

せかいおとぎばなし

 ジャックと井上ちんぽ君

むかしむかしのおおむかし、イギリスにジャックという少年が母親とふたりでくらしていました。ジャックの顔はあなたの嫌いな目上の人間を10歳若返らせた顔に酷似していました。
みなさんも知ってのとおり、ジャックのいえは貧しかったので、いえにあるものはみんな売り払ってしまって、とうとう1頭の牝牛がさいごの財産となりました。しかしそのさいごの財産も、今日は売り払わなければならないのです。

「ジャックや、市場へいって、牛を高く売ってきてはくれないかい。」
「はい、おかあさま。」

ジャックは牝牛をつれて出かけました。市場へのみちを、とことこあるいておりますと、男に声をかけられました。

「坊や、牛をつれてどこへいくんだい。」
「市場へ売りにいくのです。」

男は井上ちんぽ君をつれていました。
ジャックは牝牛と井上ちんぽ君をとりかえて、あとは天までのびる井上のちんぽを登って、雌鳥だのハープだの、この先どうなるかみんな知ってんだろ。だからもうここでおわる。寝ろ。




寝床で着想を得た段階では自己採点で75点がつき、いそいそと布団から抜け出てレシートの裏に要点を記したのだが、いざ執筆に取り組んでみれば筆進まず尻すぼみ甚だしく、45点の体たらくと相成った。(60点が採用基準。基準に達せずとも時局の判断を仰ぎこの限りに非ず。)
私が書くものは、面白くない。これは小学二年生の時に突きつけられた客観的評価で、これについてはまた日を改めて、力説したい。この評価が現在進行形であることは、カウンターの数字で日々証明されている。それでも、こうやって何事か書き、あまつさえ人前に出すのだから、私は強靭な精神力を有していると言わざるを得ない。うーん、死にたい。これ本当に45点もいってるか?


 追記
今まで書いたのを思い出してみたら、実際には採用基準点が60点を下回っていることがわかった
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2008年03月28日

08/03/27

やはり人の道に外れたことをやっておりますと、返りの風に吹かれると申しましょうか、己が身に好からぬことが起こるものでございます。へえ、私めのことにございます。
体が妙にぽわぽわいたしまして、あ、こりゃやられたなと、ピンときました。来てるな、呪をかけられたに違いない、そう思いまして、オン・アビラ・ウンケン・ソワカ、と一心に祈祷してみたのですが、一向に


目を見開いたまま目玉に針を刺そうといたしましたが、どうにもこうにも恐ろしくてたまらず、瞼の上から刺すばかりになってしまいまして、それで、こんな具合に成り果てましたのでございます。
それでもぶすぶす刺したおかげで、へぇ、このとおり熱は下がって、いまでは


蛆の湧いた豚を食っております。
いやいや、美味いものではございません。
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2008年03月26日

08/03/26

GyaOアニメアカギの配信が始まった。アカギは私の好きな漫画で、麻雀漫画なのだが、私は麻雀のことがよくわからないでいながら、好きな漫画だと言っているが、いいじゃないか。麻雀の駆け引きではなく、そこにある人間の駆け引きが好きで読んでいた。
アカギは最後に自殺してしまう。アルツハイマーに罹ってしまい、自分の意思がはっきりしているうちに、自分が自分として生をまっとうするために、死ぬ。仲間はアカギを止めようと説得するが、アカギの意思は変わらなかった。アカギは何も悲観にくれたり、意地を張ったりで死んだわけではない。生も死も、もっと自由でいいんだと思っていて、あれ、これアカギの話じゃねえや。アカギの話には違いないんだけれど、「天」という別の漫画に出ている時のアカギだ。「アカギ」はそのアカギが若いころの話です。私は眠いし胃が気持ち悪いし自分も気持ち悪いし長生きしません。生きていくのが恐ろしくてなりません。
posted by ヨシノブ at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする