柳美里なんて我の強い人がホステスをやって大丈夫だろうか、と思ったのが的中、第二回までは色川を通した柳の自分語りが強い構成となった。
柳が色川作品に強い思い入れを持っているのはわかったが、色川をどのくらい理解できていたかには疑問符がつく。
記憶があいまいなので細部は違っているかもしれないが、第三回で、色川と交流のあった井上陽水へ話を聞く。その中で「ピリオドのない生き方」という言葉が出てくる。色川はそんな生き方をしていたようだ、と。柳は「では、色川さんはピリオドをつけようとしていたのですか」と訊く。井上は、ちょっと呆気に取られたような、絶句をして、「そんなわけないじゃないですか」と返した。
色川を読んでいるはずの柳がなぜあんな質問をしたのか、私にもちょっとわからない。「ひとり博打」ではこう語られている。
私はなぜかいつも悔いている。道を歩いているとしょっちゅう砂漠にぶつかるのである。私としては心のままにまっすぐ歩いていきたいが、そのまま歩けば不毛の土地であり、いずれ飢え死をしてしまう。そこで今までの自分の向かう方向から遠去かりすぎない算段をしながら砂漠の縁を迂回しはじめるのである。その行為にはそれなりの自然さを認めよう。しかしいつも思うのだ。心のままにまっすぐ砂漠に踏み込んでいって、飢えるか狂うか、生きられぬ段階に至るまでの、生きられぬことの葛藤のプロセスこそ、生きるということではあるまいか。
ひとり博打の主人公を色川本人の生き写しと決めつけるのは危ういが、他の作品からみても、ここには色川の人生観が反映されていると私はみている。「したいことはできなくて」「男の花道」なども、生きられぬことの葛藤のプロセスそのものではないだろうか。
最終回は夫人であった色川孝子に話しを聞く。
話の内容は「宿六・色川武大」の一部をやや仔細にしたもので、見終わってはたと気づいたのは、今回柳がまったく不必要であったことである。編集された映像なので誤解があるのかもしれないが、対談という名目なのに、話を転がすわけでもなく、引き出すわけでもなく、語るでもなく。
柳美里はこの手の役に不向きである。柳のことはよく知らないが、「石に泳ぐ魚」裁判やブログでの虐待疑惑からは、我が強すぎ、他者との関わり方が下手というより気遣いや理解がない性格を感じる。だから色川を通じた自分語りになるし、井上陽水に頓珍漢なことを言う。柳が悪いのではない。配役した奴が悪い。
蛇足。柳が責任編集雑誌を降りた一件には喝采を送る。あれは痛快。長塚圭史の良し悪しは知らないが、柳の主張は正しい。
芥川賞作家の柳美里先生が怒っている! 福田和也、リリー・フランキー、坪内祐三らと並び、
「責任編集」として発行にかかわってきた扶桑社の文芸誌「エンタクシー(en-taxi)」にブチ切れて、
「責任編集」を下りたというのだ。
怒りの元凶は、発売されたばかりの「エンタクシー」(No.19)に、柳先生が大っきらいな劇団
「阿佐ヶ谷スパイダース」の主宰者・長塚圭史の特集が掲載されたことらしい。確かに、この号からは
「責任編集」として柳先生の名前は消え、連載も休載となっている。
柳先生は、自らのブログの9月29日の項でこう記している。
(以下、引用)
| 帰宅して、ポストにはいっていた『en-taxi』の長塚圭史特集を見て、不快のあまり目眩がした。
|何故、坪内さんと、この編集部のひとたちは、糞ツマラナイ芝居をやってる男を大々的に特集
|しているのだろう? 見る目がナイ、としかいいようがない。
|(中略)
| 今回の長塚特集を見て、わたしは決心しました。もう、<責任編集>として名前を連ねることはできません。
それにしても、自らが気に入らない人物の特集をされただけで、長年携わってきた雑誌と袂を分かつまでの
怒りに達するものだろうか。そのあたりの詳しい経緯は、10月7日の雑誌「創」での自らの連載に書いている
らしいが、噂によると、特集の内容云々以上に、「責任編集」である柳先生に黙ってこの企画を進めたことが、
彼女の逆鱗に触れたらしいのだ。
http://www.cyzo.com/2007/10/entaxi.html



