2008年02月13日

落雷

電光走るが如く理解は成る。時に不意の落雷に遇う。

私は一見してフリーハグにいいようのない不快感を持った。それは正義を訴える偽善者を見る感覚にも近い。
所詮他人事だと思いその不快感について検討することなく日々を送っていると、ある日突然電光走るが如く理解した。
フリーハグをする連中はフリーセックスをしていそうなのだ。実情は知らぬ。

不貞への潔癖的道徳的不快感と、おまんこにありつきたい、でもありつけないという怨み。ここを刺激する運動がフリーハグだったのだ。
フリーセックスを声高に謳う者に対し、世間はまだ道徳心のようなものを用いて頭がパーの目でこれを見る。悲しい哉、いつか見なくなるだろう。フリーハグには全会一致で明確に不道徳と判ぜらるるところがなく罪過の指摘がなされない。縛るものなくて自然ハグは声高になる。フリーハグの本質がフリーセックスであることを密かに感知していた私は、そこに善くもないのに善くいって恥じない偽善と同じ構造を見つけていたのである。


なぜフリーハグとフリーセックスが結びつくのか理解できぬ者に語る言葉を私はもたない。
私は人と人の理解とは無から生じるものではないと教えられた。
甲乙の二者あって甲が乙を理解するのは、甲が乙のように物事を把握する因子をもともと内に秘めていて、それが花開いたからである。無ければ成らない。証拠を示し諄々と自明の理を説いてもなお理解しない者は、その理解を受け入れたい、受け入れてもいいという因子がないのだ。多くイデオロギー論議に例が見られる。根拠のない通らぬ理で納得してしまう者は、もともとその理を受け入れたいという因子をもっている。その因子を刺激されたが最後、その理で解してしまう。配当金貰えぬ被害者の会の類である。理解は理屈ではない好例である。
フリーハグとフリーセックスを感覚的に結びつけられぬ者に、理解因子の望みは薄いし、実際にフリーハグはフリーセックスと同じくヒッピーの流れを汲んでいる云々の説明などしたくない。羨ましくて泣いてしまいそうだからだ。
私も自由奔放にセックスをしたい。女の子と自由自在にニャンニャンしたい。おんにゃのことニャニャニャンニャンニャン、ニャニャニャニャン。おにゃのこニャンニャン。ニャンニャニャン。
こう書いていると、私の生き死にの話をしているわけでもないのに何故か、ヨシノブは死んでいい人間だと突如雷に打たれたが如く理解するのである。理解は理屈ではないこと一部雷に似る。突然瞬時、思わぬところにやって来る。
君は私の生きるべきか死すべきかをどう思うか。あ、答えなくていい。
posted by ヨシノブ at 02:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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