2015年12月28日

15/12/26

必要とされることが幸せとは限らないのは荘子が既に指摘していることだが、必要とされないことが幸せとは限らないのが浮世のつらいところである。
今日もまた己が要らない人間であることを噛み締めるあまり嘔吐感が込み上げた一日で、嘔吐は堪えるも「死にたい」の一言は堪えきれずにポロポロ零れ落ちた。死にたい。

死にたいと言い始めて数十年経ってしまった。
いつまでもこんな事を言わずに、そろそろ具体的な死に方の検討に入らねばならぬ、と今頃になって気付いたが、これが意外に難しいのである。
前にも検討したことがあるのだが、これと思える死に方が無くて決断するに至らず、山へ入って餓死でもしようかなと消極的な態度でいたら横槍が入って話が流れて、済し崩しに生きる羽目になって現在にまで至ってしまった。

私なんぞが死のうとすると随分気力を要するもので、一度しくじるとなかなか再挑戦というわけにはいかずに、泣き言を漏らしつつ死ぬのを有耶無耶にして生きてしまう。

それで、生きてみてどうでしたか、と問われると、やっぱりあの時に死んでおけば良かったのではないかないな、と思わざるを得ぬ。
欠陥、無能、脆弱あたりを兼ね揃えた人間でいると、生きるのに分が悪い。


要らない人間だからって、それがどうした。という話もある。あるけれど、身近なところから顔を拾い上げて、この人から要らないと思われているのだなと一々再確認していくと、なかなか、感慨深いものがある。
posted by ヨシノブ at 03:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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