2011年04月28日

11/04/27

未だに書籍化アニメ化等のオファーが来ないので
当ブログは抗議のためストライキに突入します。
京アニの次回作でいいよ。












赤ずきんちゃんは、おばあさんに尋ねました。
「おばあさんのお耳はどうしてそんなに大きいの。」
おばあさんは、こう答えました。
「これ、ディズニーランド行った時に買ったミニーさんのヘッドギア。」
赤ずきんちゃんは、おばあさんに尋ねました。
「おばあさんのお口はどうしてそんなに大きいの。」
おばあさんは、こう答えました。
「生まれつきのことだから、ばあちゃんにもよくわからん。」
ふたりでみかんを食べました。
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2011年04月27日

11/04/26

家の車を眺めていた父が開口一番「今昭和何年だ」と訊いてくるものだから、とうとう壊れてしまったと背筋に冷たいものが走りました。脳の検査を受けて、年相応のものとして認知症の初期症状が現れている、と医師に伝えられてからもう何年も経っています。とうとう本格的な認知症の段階に入ったのです。
もしかしてタイムマシンで過去からやってきた父なのかもしれないとも思いましたが、どう考えてもパソコンすら使えない父がタイムマシンなんて高等なものを扱えるわけがない。いや、偶然にもタイムトンネルを通ってしまって、様変わりした風景(家の車がスズキのアルトからトヨタのプリウスになている)に戸惑っているところかもしれない。
いや、先帝陛下を偲んで、まだ昭和が続いていたら今年は何年に該当するかを考えているところかもしれぬ。昭和は六十四年一月七日で終わり、今年は平成二十三年、即ち昭和八十六年ですよ、お父さん。

平成を昭和と言い間違えていただけだった。プリウスの車検がいつ切れるのかを考えていたそうだ。

とうとう父が呆けてしまったのかと思ったよ、とこの話を母にすると、母は、年を取るとそうなる、自分も今が平成何年だったか忘れてしまい人に訊くことがたまにある、と言った。
お母さん、話のポイントはそこじゃないんだ。
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2011年04月26日

11/04/25

短期の仕事で明日から大型トラックの運転手をすることになった。
積荷は蟹。トレーラーを2台も牽引するので、車体が大変長い。こんなものを運転したことはないが、何とかなるだろう。
運転はゲーム用コントローラーによって行う。アナログスティックでの運転は、思った以上に車体が動いてしまって難しい。他の人は十字キーで運転しているのだろうか。あとで誰かに訊いてみよう。それにしても眠い。(私は後方上空からトラックを見下ろしている)
少し山に入った田舎のバイパス道路で、交通量も多くないため、危なっかしい運転でも何とかなる。しかし、登りのカーブで対向車線にはみ出したところへ向こうから私のと同じような大型トラックが来て、避けようとして車体を横転させてしまった。相手も横転。私の車からは蟹が散乱し、相手の車からは紙パックのジュースが散乱した。運転手が降りてジュースを拾っている。
私は恐ろしくなって、車を捨ててその場を後にした。これは夢なのだから、起きれば無かったことになる。起きるために一度寝ればいい。しかしどうしたら眠れるのだろうか。眠ったところで夢になるだろうかと少し不安が残る。
父から電話が来る。朝日新聞にあの横転事故が載っていたそうで、私のことではないかと言うのだ。(実家では朝日を取っていないし、事故はたった今起こしたばかりだ。)
ああ、ああ、大事になってしまった。これは本当に夢になるのだろうか。もしかして、夢にはならず、一晩寝ても事故から一晩経った状態になるだけで、事故が無かったことにはならないのではないか。論理的に考えてみるとそうなる気がする。すると私には多額の損害賠償が生じるのではないか。やはり堅実に十字キーで運転すべきであった。眠いのだから乗らなければよいのであった。ああ、ああ、ああ……。

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2011年04月25日

落語協会のお答え

社団法人落語協会:よくあるお問い合わせ
http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Articles/FAQ/



最初の質問への回答に『「協会概要」の中にある「寄席ってなあに」』とあるが、協会概要のなかにそんな項目はない。(作成当時はあったのだろうが……。)
「お笑いは落語は同じか」をクリックしても何も表示されない。




これ「よくある質問」なのか?

Q 私達の村に住み込みしながら、村中のいろんな場所で口演して修行してくれる若い芸人さんいませんか?テントと寝袋は支給します。
A もしかしたらいるのかも?しれませんが、落語協会としてはご紹介できません。


下宿や空き家に泊めてもらえるのではなく、テントと寝袋。もしかして「いろんな場所」とは人里離れた山の中だったり寂しい野原だったりするのだろうか。滝に打たれたり崖に張ったロープを渡ったりしながら(扇子でバランスを取る)寿限無を口演するのだろうな、修行。これはひょっとすると虎の穴みたいな噺家養成所なのかもしれぬ。
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2011年04月23日

爺になる

浦島太郎


むかしむかし、あるところに、浦島太郎って奴がいたの。で、こいつが最終的に爺になるの。太郎なら男で、男なら爺になって当然じゃん! って思うでしょ。ところがそう単純な話じゃない。ちょっと違うんだな、これが。
浦島太郎は漁師だか趣味だかで、釣りに行ったの。まだ爺じゃない頃ね。そしたら浜辺で亀をいじめている子供たちがいたんで、おいちょっとこら、やめろ! って、ばーんばーんってやっつけたの。子供をね。亀じゃないよ。一緒になって亀やっつけたら話終わっちゃうもん。どういうことかというと、この亀が物語の鍵を握っているのです。
助けられた亀は非常に恩義を感じて、浦島を海の中にある竜宮城へ連れて行くんだ。この頃まだ若いよ、浦島。浦島はお城で刺身か何かちょっとつまんで、玉手箱を貰って地上に帰ってきたの。さっき行って帰ったばかりだから、若いじゃん。ね。浦島はまだ。これ、よく憶えていてね。
浦島は玉手箱を開けました。するとモワワワーンと白い煙が出てきて、あっという間に、お爺さん。浦島が。お爺さんになっちゃったんだよ。
思い出してみて、玉手箱を開ける前の浦島太郎はどうだった? 若かったでしょ。それが、煙でやられたあとには……、そう、お爺さん。爺なの。俺が最初に言ったでしょ、爺になるって。ね、あれ本当だったでしょ。物語は俺の言った通りの結末を迎えたでしょ。
開ける前、開けた後、若い、爺。瞬間的な、この切り替わりの速さ。びっくりしただろ。俺もまだ興奮が治まらない。
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2011年04月22日

アバター

評判が良かっただけあって、よく出来てた。CGだらけなのに不自然な感じは少ないし、上手い仕掛けや観ていて力が入ってしまう場面が幾つもある。
しかし、“文明人”が“未開人”に何をしているかという現実が頭にちらついたことや、主人公の性格があまり好きじゃない点(例:アバターとシンクロした初回、指示を無視して勝手に走り出すところや、ネイティリが獣に祈りを捧げている途中なのに一方的に話しかけるところ。)、個人の色恋が世界の命運を左右するというお決まりのストーリーに心を許せないことなどにより、高得点は与えられてもいまいち熱が入らない。
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2011年04月21日

SENDAI


【仏国ブログ】原発報道「とくに米メディアは過剰、事実誤認も」 

  日本在住のフランス人のブログ「Neoamusementleblog」では、海外メディアの報道のあり方に疑問を抱いている。筆者は3月14日朝の米ニュースメディアフォックス・ニュース・ネットワークの報道内容を紹介している。
  この報道で使用された日本地図には、日本の地名や原子力発電所の位置などが記されている。しかし被災地である仙台は、九州南部の鹿児島県のあたりを指している。さらに東京の位置には「SHIBUYA EGGMAN(渋谷エッグマン)」と記されている。実際にはこれはライブハウスの名称で、原子力発電所としての機能はまったく持っていないと皮肉をこめて批判している。
  特にこの報道は、日本の震災や原発事故に関する誤認を象徴していたが、実際はこのほかにも海外では誤った報道が多く見られたとつづっている。
  また、海外メディアは誤った内容で報道を繰り返しながら、震災後の被災地の様子についてはほとんど報じてこなかったという。日本ではNHKが、震災者の様子として懐中電灯を片手に自転車で妻を捜す男性の姿や、避難所で再会した母子が抱き合って喜ぶ姿を伝え、人間の喜びや悲しみといった人道的な報道をしていたが、米国メディアはセンセーショナルの面だけを報道していたと指摘している。(編集担当:山下千名美・山口幸治)


サーチナ
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0420&f=national_0420_051.shtml

「報道で使用された地図」らしきもの
sendai.jpg


鹿児島にはSENDAI(川内)があり、そこには原発もあるのだが……。


知人に東川内(ひがしかわうち)さんという人がいた。私はこの名字を度々思い出しては、なんてすごい名字なのだろうと思う。
まず、長い。平仮名で七文字もある。七文字もあれば短いフルネームなら収まってしまうではないか。はやしやぺー。
ヘボン式ローマ字にすればHIGASHIKAWAUCHIである。長い。最初のHから最後のIを見ようと思ったら遠く霞んで見えやしない。しかもこの後にまだ名前が続くのである。ペーならとっくにフルネームが終わっているところなのに。HAYASHIYAPE−。
更に凄いのは、東川でも東でも川内でも苗字には十分である点だ。逆をついて内川、川東でもいける。(川、内という苗字もあるが苗字としての認知度が低いのでここでは除外)
それらを内包した東川内という充実した構え。画数が多くないのと、川に清涼感があるため、字面がすっきりして場を乱さない。林家ペーより東川内ぺーのほうがスマートだ。
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2011年04月20日

「特別な感情はない」

「うんちヘア」。韓国で人気上昇中

 「ウンチヘアの作り方」との動画も多数
韓国で最近はやっているヘアスタイルが「トンモリ」。「トン」がうんちで「モリ」は頭で、日本語に直すと「うんちヘア」。なかなかインパクトのある名前だが日本でいう「お団子ヘア」のことだ。

 ウンチ愛「トンチミ」という語もあり
頭の上にグルグルとまいたスタイルからこの名前が付いたそうだ。芸能人のあいだでこのスタイルをする人が多くなっているらしく、それに触発されてか、一般の人もこのスタイルにする人が多くなっている。この「トン」という言葉、韓国ではかわいいというニュアンスがあるらしく、あるバラエティー番組のタレントが夫婦役の相手の女性のことを「ケトンア(わんちゃんのウンチ)」と呼んでいたりしている。


BEAUTY HAIR NEWS
自然派こだわりオトナ女性の美髪イチオシ情報

http://www.beauty-hair-news.com/news_oLr6N58BF.html


パク・キョンリムのラジオ『星降る夜に』に2NE1がゲスト出演した時
ダラがチョンドゥンのBDを祝います^^
相変わらず、「ケトンア〜(犬のフン)」と呼びかけていますが^^;;


☆.。.:*.。キダリコ☆キダリヨ。.*:.。.☆
http://blogs.yahoo.co.jp/jyuoni/42295091.html


韓国で人気絶頂ウンチキャラクター生みの親「ストーリー性で勝負したい」

・特に人気なのが、ウンチ帽子を被り鼻水を垂らしたキャラクター「トンチミ」(トンは韓国語で大便)である。これが日本でいう「ゆるキャラ」にあたるのか、日常に疲れた大人たちの心を癒しているというのだ。
トンチミが誕生したのは1999年の1月。その後、20種類を超えるグッズが世に送り出された。「真っ赤な顔にそばかすをつけたタルギ(イチゴをモチーフにした、韓国を代表するキャラクター)とトンチミが、仲よく共存する」のがトンチミの世界観であり、ストーリーだ。
フルーツと大便のコラボとは、何とも大胆で想像するには若干きついものがあるが、キャラクターをデザインするナム・インスクさんは、ウンチについてこう表現する。「朝起きるたびに、何だかワクワクする」。
毎朝、体内から出るものだが、その形はいつも偶然。調節するのが大変だからこそ、新たなウンチに出会うのが楽しみなのだという。一方、彼女が生み出したトンチミは、ウンチを「創作物」としてとらえている。
さまざまな創作物(つまり、ウンチ)を完成させたいという思いから、実験に明け暮れる勉強熱心なトンチミ。水をたくさん飲んで下痢してみたり、時には便意をがまんして便秘になってみたり……。そして「これだ!」というウンチは必ず保管。それでも好奇心は収まらず、他人のモノまで観察する。

・ウンチに対する思いを問うと「特別な感情はない」とクールに答えるナムさん


ロケットニュースより抜粋。元記事にはトンチミ漫画有り。
http://rocketnews24.com/?p=70749


韓国人はどうしてウンチが大好きなのか? ウンチと記念撮影する人たち

日本にも『Drスランプ アラレちゃん』などの漫画の影響でウンチが注目を浴びた時期があったが、韓国もそれと同じ現象なのだろうか? しかし韓国の場合は一時的なブームではなく、以前からウンチをモチーフにした商品が定番となっているようで、特にDALKIという企業が率先してウンチの商品化を進めているようである。
DALKIのキャラクターがたくさんいるミュージアム(テーマパーク)があるのだが、そこには見事なまでにリアルに再現されたさまざまな状態のウンチが展示されている。アラレちゃんタイプのとぐろ系、豪快な一本〇ソ系、水分が多くてユルい系、さまざまなウンチがリアルに再現され、展示されているのである。
そのリアルウンチと記念撮影をする人もおり、老若男女に愛されているミュージアムになっている。また、ミュージアムにはカンチョーコーナーのような場所があり、そこでカンチョーされているようなポーズをとって記念撮影を撮っている人もいるようだ。
ウンチをここまでクリエイトできる韓国人の発想力はなかなかのものである。日本人も負けていられないのではないだろうか? ちなみに、日本で『うんこさん』というアニメーションが作られた際、そこに登場した韓国系ウンチのキム・ベンが韓国人を馬鹿にしているとして、多くの韓国人たちから抗議を受けた事がある。


ロケットニュースより抜粋。元記事にはテーマパーク内その他の写真有り。
http://rocketnews24.com/?p=70543
タグ:うんこ
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2011年04月18日

ぼくのかんがえた遊び「幽霊」補足

前に「幽霊」という遊びを紹介した。そこで「心霊云々の怖い話が好きなわりに霊感がまったくないもどかしさが昂じて生じた、他人を幽霊と決めつける遊び」と書いたが、それだけで出来た遊びではなく、「幽霊」には原型となる実体験があった。

マスコミで鈴木宗男の話題を大きく取り上げられることが多かった十年ほど前、その或る夏の日。
私は一人の知人を連れて、中野ブロードウェイの店に入った。店員が一人、中高生くらいの客の男が一人居て、私が商品を見ていると、客の男がだいたいこのようなことを言った。
「へへへ、鈴木宗男がいなくなっても、アホの坂田で代用できますね、うへへへへ」
独り言ではないはっきりとした声だった。狭い店内の他人、つまり我々に向けて発したと思われる、鈴木と坂田の顔が似ていることに着眼した提言である。私は男が無用の恥に頭から飛び込むが如く急に面白くないことを言い出したので吃驚し、反応に困ってちらりと知人を見た。すると知人は顔色一つ変えず、まるで何も聞こえなかったかのように平然と男を無視しているではないか。私はそのポーカーフェイスに驚いた。人間がせっかく面白いことを言ったつもりでいるのに、無視することなど許されるのだろうか。それは人を人として扱わない、人格の蹂躙ではないのか。しかし、知人と男は何の繋がりもない赤の他人と言えば赤の他人であり、手を差し伸べる義務はないのかもしれない。
私は救いを求めて店員を見た。そして三度驚いたのである。店員もまた、何も聞こえなかったかのように男を無視しているのだ。店員といえば客を迎える側、言わばホストである。それが男に愛想笑いのひとつも見せずに目も合わせず、誰もそこにいないように振舞っている!
私はおそろしくなった。もしかすると、この男の姿が見え、この男の声が聞こえているのは、私だけなのではなかろうか。ならば、この男の正体は、もしや幽霊ではあるまいか……。
君は本当にあの男が見えなかったのか、と今に至るまで知人に訊けないでいる。

これが「幽霊」の原型です。今ではこの遊びがすっかり当たり前になってしまい、原型のほうは忘れていることが多いのですが、今日は思い出したので、書いてみました。
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2011年04月16日

8:20 長崎発

客室乗務員の穏やかだがしっかりとした声が機内に響く。
「どなたか、お客様のなかに将棋の名人はいらっしゃいませんか」
一人の男がさっと手を挙げた。
「あの、私、自分で言うのも何ですが、将棋は趣味で長年やっておりまして、今では県内でも5本の指に入る実力があります」
客席からは少しどよめいたような称賛の声、幾らかの拍手があがった。
男は照れている。
その和やかな空気を、客室乗務員の不穏な声が吹き飛ばした。
「ふざけないでください! 名人位を持ったプロ棋士に用があるのです!」
男はへたり込む様に着席し、客席にはばつの悪い沈黙が漂う。
その沈黙を突き破るように一本の手が挙げられた。
「私は名人位を持った棋士です」
「こちらへおいでください」
客室乗務員は立ち上がった老棋士を恭しく迎え、県内5本指の男をぐっと睨めつけてから客室を出た。
男は帽子を深くかぶって項垂れ、他の客たちは男への称賛など無かったかのように、彼を無視した。

操縦席では、機長が操縦などそっちのけで盤面を睨んでいた。副操縦士はつまらなそうに窓の外を見ている。
「機長、お連れしました」
「おおっ、はやくはやく」
「えっ、本当に連れてきちゃったの」
喜ぶ機長と不快気な副操縦士。
「次の一手を迷っててさあ。飛車かなと思うんだけど、名人はどう思う」
「ここに桂馬ですね」
「ああ、なるほど。それじゃ桂馬を、ほい」
「ずるーい、機長すごくずるーい」
「早く指せよ」

副操縦士の抗議は認められず、機長は名人の助言を仰ぎ続けた。
副操縦士の涙に濡れて、飛行機は一路対馬へ。

Have a Nice Trip !  ―――よい旅を!
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2011年04月15日

今週の収支報告

「トラウマ映画館」という本が2冊売れていました。1人で2冊買ったのか、気の合う2人が買ったのかはわかりません。
この本で触れている映画はひとつも観たことがありませんが、本のタイトルでひとつ思い出したことがあります。

いつの間にか失くしてしまったけれど、子供の頃に米国海軍のジッポーを持っていました。本当に海軍のものか、海軍っぽく仕上げてあるだけなのかはわかりません。使い込まれた金色をしていて、NAVY云々と英文が彫りこまれていました。もうオイルが切れていて、火は着かずに火花が出るだけでしたが、数少ない私の宝物でした。
或る日、私は映画館に行きました。立ち見で、場内は暗くなっていましたが、まだ上映が始まる前のこと。手持無沙汰でいた私は、何の気なしに持っていたジッポーの蓋を開け、石をカチッと……。一瞬だけ、しかしはっきりと、場内が驚くほど明るくなり、席に着いていた満員の客が一斉にこちらを振り向きました。
その後何という映画を観たのかは憶えていません。













マルコビッチ大白抜き

   何? 映画好きなの?
   じゃあ、マルコビッチお兄さんが素敵な映画を紹介するね。
   じゃーん。『マルコヴィッチの穴』でーす。
   実は、お兄さんも出演しているんだよ。お兄さんの活躍に期待してね。
   家族とも赤の他人とも楽しめる、感動と抱腹絶倒の名画です。淀長さん御推薦。
   みんな絶対買ってね。ノルマは1人10枚です。(今月分)




 

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2011年04月14日

11/03/24

庭に一匹のニホンザルがいるのを、室内から見ている。サルはじっとしているが、危ないので戸締りをする。そいつよりも離れたところに、もう一匹いるのに気付く。小柄な大人くらいは身長があり、ずんぐりと肥っている。何にも興味がないような顔をしてあぐらをかいている。
危ないのでサルを追い払おうと、父が2メートルくらいあるチェーンソーを持ち出して、手前のサルの近くの板(そこだけ何故か板で低い壁のようなものがある)を切り始めた。これが威嚇になってサルが逃げるだろうと思ったのだが、サルが動じないものだから、父はだんだんと近づいて、サルの指先に刃をあてるまでした。私は近くで見ていて、えげつないことをするなあと思っている。サルは平然としていて追い払えず、我々は家に引っ込んだ。
サルは先程よりも家に近づいている。窓から見ていると、大きなサルのほうにコリー犬が近づいてきた。身長がそのサルの座高と同じくらいだ。サルは相変わらず興味を示さない。コリーはサルの尻の下に顔を突っこんで、大きな睾丸を銜えて引っ張り上げた。サルは暴れもせずに前のめりに倒れこんで、痛いと言うより困った顔をしている。これでもう安心だ。
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2011年04月13日

11/04/12

気のせいかとも思ってみたが、思い当たる節がある。
じゃがいも。にょっきりと芽を出したじゃがいもを、もちろん皮ごと芽を取った。それをスパゲッティーと一緒に茹でて食べたのと、この度の不調は、時期的には一致する。

思えば、芽の周辺の処理が甘かった。緑色の部分が少々残っていた。最初に食べた奴は茹で足りなかった。三日で十個食べた。だからといって、じゃがいもごときに人間様がこうもしてやられるものなのか。
私は、じゃがいもの何十倍も大きい。じゃがいもを捻り潰す力がある。じゃがいもより行動力がある。じゃがいもにはない知性と教養がある。
その私が、じゃがいも如きにやられるわけがない。では他に何か理由らしきものはあるのかというと、ない。しかし、いや、まさか。
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2011年04月09日

東京飄然

東京飄然 町田康  中央公論新社

町田がぷらぷら歩いた随筆。三五〇頁くらいあって、読み物として価値があると思った頁を数えたら七分の一くらいしかなかった。一八〇〇円する。

ぷらぷら歩いて特に何事も起こらない。それを描く町田の文章も特にどうということはない。これは面白くない本ではないかと思って、それを確認するために最後まで読んだ。中盤の串カツを食べに行く辺りでようやく面白くなってくるかなと思ったら早めに尻がすぼんだ。

結局のところ、これは面白くない本です。合間に挟まれた町田の撮影した写真も、どうということはありません。こんな本を面白いと言ってやる必要はありません。

町田は五冊くらいしか読んでいませんし、中身はほとんど忘れてしまいましたが、その中の一冊「へらへらぼっちゃん」はとてもいい。これがあるから東京飄然など読まんでいいのです。

へらへらは随筆と書評が少し。特に何事も起こらない日々を、誰にでも書けるようなふざけた文章で綴る。しかし、誰にでも書けそうに見えて誰にでも出来る芸当ではない。ふざけているようで、かなり高度。脱力と感性の鋭さがだらしなく開陳されているようでいて節度がある。私もこんな文章が書きたいと思ったし、真似したこともあるし、また真似たいと思ってる。

本書読むより断然「へらへらぼっちゃん」です。曲なら「メシ喰うな」。

町田が作家になる前の、町田町蔵時代、関東のライブハウスに彼が来た。彼のバンドINUは既に有名になっており、関東の売れてないバンドマン達が緊張しながら彼を迎えると、町蔵は急に「この中に一人だけ関西人がおる。誰や!」と怒鳴った。周囲が静まり返った中で、町蔵は「俺や」と言ってニヤリと笑った。町蔵の真意がわからず周囲は困惑した。
後に大槻ケンヂが本人へ真意を尋ねると、あれはギャグだったという。
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2011年04月08日

あゝ、荒野


あゝ、荒野  寺山修司  河出文庫

「幾人かの登場人物をコンボ編成の楽器と同じように扱い、大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めてゆくというやり方」(あとがき)
寺山唯一の長編小説。ボクシング、どもり、競馬、キャッチボール、短歌等々、寺山的要素でいっぱいの話。

 麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース


p140
自分が(自分自身に腹を立てて)ブルドッグのように憮然と出てくるかなのである。

寺山でもこんな誤用するんだな
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2011年04月07日

11/04/06

正月に駄目で半年置いても駄目で、己の体の不甲斐無さに泣いた日から一年十ヵ月。そろそろ大丈夫だろうと献血に行く。血液検査で数値を褒められる。

NHKで桂歌丸が鰍沢。歌丸はテレビでのみ何回か観ている。若い頃は知らない。この人の噺を面白いと思ったことがまだない。
今回は、間を取るのではなく、次の言葉を思い出すために言葉が少し詰まったような場面が何度もあった。くすぐりで客が笑ってなかった。(後日笑点でやった鶴には良い意味で番組にあっていた。今度からずっとああいうのやりなさい。)

父の文化圏には、とうとう「ディスク」という言葉が根付かなかった。DVDもブルーレイも一応は獲得したのだが、ディスクは放棄したらしく、代わりに「ドーナツ盤」と言う。これを真顔で言えるのが老人の特権である。

私が経営能力を危惧していたインド人のカレー屋、まだ営業中。

出血
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2011年04月06日

真夜中の訪問者

なんとなく息苦しいような、むずむずするような、不快な気分で、不本意ながら目が覚めてしまった。頭がじんじんと鈍く痛む。枕元の時計を見ると、午前2時。まだ目が覚めてよい時間ではない。しかし眠気はどんどん抜けてきている。意識的に目を閉じていたが億劫になり、これはもう眠れまいと諦めて、カーテンを開け放した窓から差す薄い月明かりに浮かぶ、見飽きた天井をぼんやりと眺めた。
ふと、布団の左側、襖が少し開いているのに気が付いた。おかしい。いつも寝る前には閉めているのだが、閉め忘れていたのだろうか。いや、違う。襖は今まさに、ゆっくりと音もなく開いているところであった。
一人通るくらいに開くと、その奥からこれまた音もなく、青白い老婆が滑るようにして入ってきた。使い古した雑巾のような襤褸を纏い、逆立つように乱れた白髪を風もないのに揺らめかせ、妙に膨らんだ皴だらけの顔でだらしなく口をあけ、ニタニタと笑っている。腰を曲げて、両手はだらりと下げたまま突っ立って、白く光る眼で俺の顔を覗き込むようにして、馬鹿にしたような笑いを―――。

「お前かー!」と怒鳴りつけて飛び起きた。俺の剣幕に老婆もさすがに口を閉じて真顔になり、首を竦めて腰を伸ばした。不快な覚醒はこの不気味な老婆の仕業に違いない。婆め、ただじゃおかねえ。何かないかと辺りを触ったらラジカセに触れたので、それを引っ掴んで婆に投げつけた。ラジカセは差し込んだままのコードが軌道を狂わし見当違いの地点に落下して、婆はそのまま逃げてしまった。


あんなにも気味の悪い婆は即刻殺すべきだ。俺は朝一番で法務大臣に直談判して、不気味老婆の殺人許可を得た。おかげで会社へ遅刻することになり、小さな会社の社内中で嫌な顔をされて俺は腸が煮えくり返り怒髪は沸騰しもう絶対許さん殺すあの婆めぬぬぬぬぬと思いながら夜を待った。ぬぬぬぬぬというのは怒りが言語を絶したのであり、国語の成績が良かった俺の言語を絶するということは、それだけ俺がカンカンに怒っていることの証左である。怒りで頭痛も吹っ飛んだ。夜を待つ間に、スプレー式殺虫剤とライターと木刀を枕元に用意した。殺虫剤を噴霧するガスにライターで引火させ、簡易火炎放射器として老婆に火を点け、木刀で思い切り何度も殴りつける。それを想像すると頭がかっかとして布団に入ったまま一睡もできなかった。

午前2時。昨夜よりも明るい月明かりの中、襖が音もなく開くのを待っていると、意外にもガタガタと音を立てて襖が動き出した。不審に思いつつ俺は起き上り、殺虫剤とライターを手にしたが、入ってきたのは恰幅のいい髭面の中年大男だった。頭に鉢巻、紺色法被姿の職人風で、いきなり俺を睨みつける。
「ばあちゃん、こいつか。」
男は俺を指さして襖の裏へ問いかけた。襖の陰から昨日の青白い婆が恐る恐る顔を出して、こくんと頷いた。婆め、殺すぞ。飛びかかろうと身構えると間髪入れず「かあーっ!」と男が大声を出して両手を振り上げたので、俺は吃驚してその場から動けなくなってしまった。婆は顔を引っ込めた。出てこい婆。
「お前、年寄りに何てことするんだ。ちょっとそこに座れ!」
男に気圧されて、俺は道具を置いて布団の上に正座した。
「夕べのこと、ばあちゃんから話聞いたぞ。お前、何てひどいことするんだ。年寄りを大切にせんか。」
男は腕組みをして叱りつける。誰だよお前。
「ばあちゃん、ここはおれがよく言っとくから、今日はもう帰りな。ちゃんと叱っておくから、大丈夫だから。気を付けて帰りなよ。じゃあな、またな。」
男は襖の後ろの婆に声を掛けると、俺の方を向いて胡坐をかいた。婆の返事はなかったが、襖が音もなくするすると閉まったので、帰ったのだろう。
「若い者みんなで年寄りを大切にしなきゃいかーん! いかんぞー!」
襖が閉まるなり、男は拳で畳をだんだん叩きながら怒鳴った。何だよこいつ。帰ってくれよ。男は俺の気持ちを汲む様子もなく、唐突に自分と祖父母との思い出を語り始めた。要約すると、年寄りから色々な事を学びとても世話になったという話で、近所の年寄り(その一人があの婆)からも可愛がられて、釣りに行ったとか、みかんを貰ったとか、そういう、つまらない話。つまらないが、俺はこいつに一刻も早く帰ってもらいたいので、相槌を打ちながら大人しく聴いた。子供時代で始まった男の話は現在の自分の在り方に到達し、政治経済や時事問題にまで浅く及んで、そろそろ終わりの気配が見え始めた。俺は婆を一時間くらいで殺してから朝まで寝ようと思っていたのだが、予定が狂って外はもうすっかり明るい。
「お前もよく反省しているようだから、今日はこれくらいにしといてやる。次来たときは年寄りが喜ぶ肩叩きのコツを教えてやるから、それでばあちゃんのところへ謝りに行ってこい。ちゃんと頭を下げてあやまるんだぞ。」
また来るのかよ。とにかく今日はこれで帰ってもらえるようなので、げっそりはしたがほっとした。もう寝ている時間はないので、このまま出社しなくてはいけない。どうにか午前中持ちこたえて、昼休みに仮眠を取らなくては。
立ち上がりかけた男が、枕元を凝視して動きを止めた。視線を追うと、木刀が転がっている。男の顔を見ると、目が合った。
「お前はそんなもの持ち出して、何をするつもりだったんだー!」
そのまま夜中まで物凄く説教された。殺虫剤とライターの意図に気付かれていたらまだ長引いただろう。カーテンを開けたままだったので、たまに道行く近所の人が、塀から頭を出してこっちを覗いているのがわかった。

男が帰ってからも俺は会社を無断欠勤して、悲しいやら悔しいやら恥ずかしいやらでずっと泣いている。何故こんな目に遭わなければいけなかったんだ。俺は勝手に入ってきた婆を追い返しただけで、大臣の許可もちゃんと取ったし、何か悪いことをしただろうか。頭の中がぐちゃぐちゃで、取り敢えず引っ越そうとは思うのだが、それから先のことは何も考えられない。何も考えたくない。お腹空いた。

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2011年04月01日

自選恐怖小説集 鍵 筒井康隆  角川ホラー文庫


自選恐怖小説集。前にも読んでいるが中身を思い出せないので再読。恐怖と銘打たれているが、大体は素直におばけ幽霊妖怪呪術怪物悪魔殺人鬼等を恐がる型ではない。
私は世間で評価・熱狂されているほどには筒井を面白いとは思わない。筒井には作品が多くあって、私はその少ししか読んでいないから、残りの多くの方に面白いのがあるのだろうと思っているし、少しのなかでも面白いのはあった。ただ、世で絶賛されるほどには、好みの問題として、好きではない。好みの問題。今回それを再認識した。本書に収められた作品が、どれもそう面白くないのだ。
誤解を招かぬようはっきり書いておく。好みに合う合わないは上手下手ではない。私は筒井への世間の賛辞を鵜呑みにしないが無視しない。筒井は高く評価されるべき重要な作家だと思っている。

私は筒井の何が駄目か。ところどころハイソなインテリが顔を出すのが頂けないのだと思う。深層心理でアニマがどうとかオニは元オヌと言い姿が見えぬ怪物だとか書いてしまう、言い方を変えれば教養じみていると言えようか、そういうのが駄目、多分、素材として駄目ではなく出し方が駄目である。「死にかた」の惨殺や「二度死んだ少年の記録」の低俗教師描写などはハイソインテリ趣味の裏返しだ。知能の高いところでこういうの面白いだろうを振り回しているので、知能の低いところにいる私には空振りしているのだと思う。高い知能は絶対正義ではない、と一言添えておく。解釈は任せる。


「池猫」は僅か二頁で終わる物語だ。ここにその粗筋を結末まで書く。

主人公は小学生の頃、親のいいつけで、家に住み着いた猫が生む子猫を捨てに行く係だった。罪悪感を持ちつつ、裏山の林のなかにある池へ何匹も何匹も捨てた。やがて故郷を離れ、すっかり大人になって里帰りした主人公は、好奇心からあの池を見に行く。そこには水に適応して池を泳ぎ回る、数千匹の猫がいた。「池猫だ!」と恐ろしくなった主人公は山を駆けおりた。

私はこの物語を、恐怖小説を装った頓馬な小説だと思ったが、違うらしい。解説の北野勇作はちゃんと「怖い」と書いていたのでびっくりした。ネットで感想を調べても、ちゃんと恐怖小説として扱われている。
池猫を不気味と捉える視点はわかるが、私には殺したと思っていた猫が生きていてよかった、すいすい泳いで楽しそうじゃないか、が優先する。数匹なら楽し気でも、数千匹(主人公の算出)も群れていては怖いじゃないか、と言う人がいるかもしれない。私は数千だなんて馬鹿げていると思う。山の中の池である。池というからにはそう大きくない。湖じゃないのだから。
池に数千匹も猫が入るわけがなかろう。あまりにも深い池で、底までみっしりと猫が詰まっているのかもしれないが、主人公の眼にそんなところまで見えるわけがない。水面に近いところで数千匹だ。「蒼く澄んだ水面」を「数千匹の猫が泳ぎまわっていた」、「あるものは水面から首を出してすいすい泳」ぐというから、水面には余裕がある。密集していてはこうはいかない。
「あるものは水に潜って魚をとっていた」そうだが、数千匹も捕食者がいて池の魚が絶えないとは思えない。描写にはないが川が注いでいて魚が来るとしても、数千の猫を養うほど魚が来るものだろうか。他にも植物や虫を食べ、共食をしても、数千にまで繁殖出来るものだろうか。私は池猫の生態を知らないが、近所で見かける陸猫をもとに水に適応した猫を考えてみると、数千匹なんてのは馬鹿げた数字であるとしか思えない。主人公は大袈裟だ。
それで猫を見た主人公の台詞が「池猫だ!」である。学術的になんと呼ばれるのかは知らないが、一般人が池にいる猫を見て池猫と名付ける思考は、おかしくともなんともない。だがそれだけに、池猫というひねりのない即興で作られた名前で断定する台詞が妙におかしい。そりゃあ池猫だろうけど、恐怖に青ざめて言う台詞にしては何だか間が抜けている。「なんだこれは!」とか「猫だ!」とかのほうがすっきりする。もしかして三毛猫だったから咄嗟に池猫なんて言っちゃったのかなあ、なんて考えるのも楽しい。岸辺からはネコヤナギが生えていたというのも出来すぎている。

いや、その捉え方はおかしい。池という言葉に惑わされて小さい水溜りに限定すべきではない。池に厳密な規定はない。不忍池だって大きいじゃないか。ここは描写通り、数千匹の猫が泳ぎ回る大きな池を想像すべきだ。そういう人がいるかもしれない。
しかし、序盤に「家の裏山に、古い池」「池は林のなかにあり、波立たぬ水面は蒼黒くて不気味」とある。家の裏山が山脈とは想像し難い。それなりの、比較的小柄な山だろう。山というのは大部分斜面で成り立っている。池が山頂にあれば山頂と書くだろうが書いていないので、山の中腹あたりにあるのだろう。小学生が猫を持ってのぼる程度の域である。そのような立地であまり大きな池は想像し難い。林の中で波立たぬとあるから、風を遮る程度に木々が取り囲むと読め、それではあまり池が大きいと具合が悪い。水量が多いと水面は蒼黒く映るが、林の影が落ちればあまり大規模な池でなくとも蒼黒くなるだろう。以上からそう大きくない池を想像して何がおかしい。これで読んでいたから数千匹の猫が滑稽なのであり、池に数千匹の猫がいるのを変に思われたくなければ、最初からそれなりの大きさを筒井が描写すべきであった。家の裏山に不忍池があったと書くべきであった。東京ドーム何個分の池と書くべきであった。数千匹の猫から遡って、それまで頭の中に構築していたそう大きくない池を大きな池に見直すことに、何かの効果を感じるべきだったのだろうか。突然視界が開けるように、そう大きくない池が大きな池だったと読者に判明して、おお、と驚くような。それによって大きな池へ猫を捨てていたことに新たな発見が生じるならいいが、ないので、やはり誤解を予防するためにも池の大きさは明記しておくべきだったと思う。私には驚きよりも描写不足の感が先に立つ。私の読解力に非はない。そう大きくない池で大勢の猫がパチャパチャやってる画だって面白い。
私は池が小さくない可能性に気付いた時、湖の如き池を数千匹の猫が泳ぎまわるのを想像した。その時頭に浮かんだ言葉は『楽園』であった。よかったじゃない、生きていて、楽しそうで。やっぱり恐くないのである。

主人公の恐がり方がずれていて、そこを楽しむ小説なのかと思っていたが、ずれているのは私らしい。生態系がどうなるとかこのような生物が生まれてしまったことが倫理的にどうだとか、そういうのはこの話のポイントではないだろうし。

私は筒井作品がわからないことへの劣等感を意識しないが、池猫に関しては意識しないどころか、物語に大人しく従って怖いとしか思えない人に勝ったとすら思う。映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』だってだいたいこういう話だろ。
これだけ高く評価される作家の作品がこれだけ解らないということは、私には筒井にわからないものがわかり、筒井に書けないものが書ける可能性がある。この一点でならば、私は確実に筒井を超えられる。この可能性が楽しい。私が筒井を超えるのを、多くの人は知るまいが。
筒井本人が池猫をどう思っているかは知らないので、もしかしたら私の解釈こそが本意なのかもしれない。それならそれで、理解が足りていない読者にふんぞりかえるだけである。


本書があまり面白くなかったので、私が筒井くんに気の利いた恐怖小説というものを教えてやろうと思って、ひとつ話を書いてみた。そのうちブログに載せてあげるから、それを読んでこわい話とはどういうものか、よく勉強しなさい。
「ひゃあ。そのふざけきった思い上がりが一番こわいや!」
おあとがよろしいようで……。 


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