2009年05月30日

09/05/30 こういう構想がある

だからさ、このブログを大人気にして、俺はブログで食っていきたいわけ。
最近考えたのは、人気になったらブログをキーホルダーにしようって。修学旅行に来た小中学生が買うよ。御土産とか称して、普段手にできないような金をお小遣いとして持っちゃってるから、金の使い方わかんなくて、何か買わないと損したような気になって買うの、キーホルダー。御土産って言って。特に渡す相手いないのに。学年中で同じとこ行ってんのに、誰がそんな御土産なんか要るかよ。だいたいお前友達いないじゃん。本当は自分が欲しいんだよな。で、金もなくなって旅行から帰って冷静に御土産を眺めてみるとさ、ちゃちいの。ちゃちくて、他人にあげるにあげられないの。で、引き出しの中に死蔵。修学旅行がこういうガキを毎年毎年バスに乗っけて運んでくるから、キーホルダーは儲かるはずに決まってる。
それで、人気を出すためブログに絵を掲載したい。これはずっと前から考えていて、半年前なんか年末から年明けの商戦を狙って、スキャナを買おうと本格的に検討していたんだ。今あるやつはもう壊れちゃってるから。で、検討の結果、お金がなくて買えなかったの。まだキーホルダーを売りに出してないから。
絵といっても、印象派のセザンヌとか喫茶店の名前みたいな何とかとか、ああいうのとは違うよ。ずばり、マンガ。日本人はマンガとアニメばっかり見てる民族だから、マンガの絵を描いていればみんな飛びつくと思う。マンガは世界中でも大人気だから、外国人もOh! Japanese Manga! とか言って飛びつくの。金髪が。
それでもうブログには文字も要らないと思うんだ。絵があれば。だから、文字は全部絵文字にしちゃおうかと思って。するとみんなまた飛びつくの。日本人は電車の中でもマンガを読んでるくらいの民族だから、マンガなら何でも読むんだよ。外国人も山陰線とかに乗って飛びつくんだ。Yes! Japanese Manga!とか言って。パン食べながら。ピーナツバター塗ったくって。
でも最初は驚いちゃうよ、みんな。ブログがヒエログリフみたいになってるから。「アッ! エジプトのインターネットになってる!」って思わず周囲を見回して、砂が落ちてないか調べちゃうよ。通行人のおばあさん捕まえて、「おばあさん、ここはエジプトですか」って訊いちゃうよ。おばあさんも、そういえばここエジプトだったかな? って脳が曖昧になってるから考え込んだり。鳥取砂丘にいる奴は運命のいたずら。砂だらけでエジプトだ! って信じちゃう。おばあさんと一緒に。でも富士山とか東京タワーとかあるんで、よくみたら日本ってすぐにわかるんですけど。でね、キーホルダーが売れるの。みんなも買ってね。
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2009年05月29日

09/05/28

「みんなー、今日もヨシノブのブログが始まるよ! 読むときは、画面から目を離して読んでね!」



君たちは年寄りの繰言だとそっぽを向くかもしれんが、西村知美が『すごいよマサルさん』を好きで、いつでも読めるように、自宅の各部屋それぞれに全巻ごと置いていると話していたのは、好きの度合いを示す話ではなく、単なる成金の趣味の悪い金の使い方自慢ではないかと思う。西村のやり方には一冊一冊に対する愛情が感じられなくて、どうにも物質文明の果てに待ち受ける荒野へ突き進んでいるかのように「今日のブログはどうだったかな? 世の中や経済というものを理解していない老人は、こういう主観的な精神論で説教するけど、その内実は単なる貧乏人の僻みなんだ。こんな老害ブログは今日を限りに読むのを止めようぜ!」
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2009年05月28日

土左日記

土左日記 紀貫之 鈴木知太郎校注  岩波文庫


興味のないまま読んだので、本文はまったく面白くなかった。慣れぬ文体で、今一つ身が入りにくいうえに、私は歌を解するわけでもなし、亡き子について胸に迫るわけでもなし、軽口本のようなわかりやすい面白さがあるわけでもなし。ただ、すっかり忘れていた最後だけは、素直に同情した。留守にする間、隣人からの申し出で空き家の管理を任せていたのに、帰ってみたら荒れ放題になっていたという衝撃のラスト。隣人には、物も絶えず得させたり、だったのに。
あと、昔の船旅の退屈なこと。海賊を避けたり風向きが悪かったりで、今なら飛行機でビューンといくところを2ヶ月もかかってチャプチャプいくわけです。いくらGWに高速1000円で渋滞したって、こんなに時間かからないよ。船内にテレビとかゲーセンとかないし。当時はDSやPSPなんか影も形もなかったんだよ。ジャンプもまだこち亀が連載されてないからね。

ただ、30ページに及ぶ解説を読むことで、土左日記を読んだという手応えは得られた。記録ではなく日記、日記というより文芸と呼ぶべき構成。当時、男は漢字を使い、女は仮名文字を使った。和歌の名手でもあった貫之は、女に仮託することで、先進的大陸文化よりも日本文化に重きを置いたのである云々。


土左日記は女に仮託して書かれたというのが通説であるが、近年、それを正面から覆す説が出た。今回の読書で従来の説を軽く復習ったのを下敷きに、新説のほうも読んでみたい。
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2009年05月27日

かのように

幸福の科学が政党を作ることが話題を集めている昨今、私は便所為事の隙を盗んで森鴎外を読んでいる最中で、ちょうど政治と宗教に触れた部分に掛かっており、なにやら時機にかなった巡り合わせであった。



政治は多数を相手にした為事(しごと)である。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異(こと)にしている北と南とを擣(つ)きくるめて、人心の帰嚮(きこう)を繰(あやつ)って行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆(さから)わないように抑(おさ)えていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀(はか)って行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。(中略)
一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来(がんらい)学問をしたものには、宗教家の謂(い)う「信仰」は無い。そう云う人、即(すなわ)ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音(ふくいん)を尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓(かす)のこびり付いていない教義をも覗(のぞ)いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。

森鴎外「かのように」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html



幸福の科学の国政参加は、決してドイツの強みと通じるものだとは思わない。両者は単に政治と宗教が話題にあがっているだけが共通点である。これしきの話題ならばわざわざ書きはしなかったのだが、アントニオ猪木が以下のようなことを言っていたのが、ちょうど「かのように」の内容と符合するようなところがあったので、これらがなにやら時機にかなった巡り合わせのようで、書き留めたのである。



“燃える闘魂”アントニオ猪木が前民主党代表・小沢一郎に言いたい放題だ。

TSUTAYA online『雑誌ネット』で連載するコラム『アントニオ猪木の闘言(トーゴン)』第85回では、「小沢代表辞任の始末」と題し、元参議院議員でもある猪木が小沢代表辞任劇を振り返った。

その冒頭で、「まずズバリ言えば、あれだけ超ベテランの小沢一郎にしてはセコかったよな」と切り出した猪木は、「確かに一昔前なら政治権力で(不正も)通っちゃったと思うんだよね」と言い放つ。また、小沢氏が行った弁明については、「小沢さんが西松建設との関係で秘書が逮捕されたことに対して“なぜ(選挙間近の)こんな時期に”って国策捜査を疑ってたけど、どう考えたってそんな重要なことを知らないわけがない」と述べてはいるものの、猪木にしては、すでに世間一般で指摘をされているような論調に留め、猪木独自の解釈や意見はなかった。

それでも、コラム後半では、「どこまで行っても小沢さんが首相になれないっていうのは、もしかしたら前世がなんであったか、そこまで遡って考えないといけないのかもしれないぜ」と小沢氏の前世にまで言及し、ようやく“らしさ”を出してきた猪木。その最後には、「もっと政治家は宗教的な話というか、イスラムやキリストじゃないけど、宗教とはなにかを勉強しないといけないのかもしれないよ」と提案、その理由を「宗教の構造が理解できれば社会の構造もわかるのかもしれない」と語るのだった。

http://news.livedoor.com/article/detail/4171978/


宗教を学問することで社会に活かすという発想は、まさしく「かのように」の主人公が挑まんとして葛藤しているテーマなのである。両者の思考はきっと異なる領域で展開されているのだろうが、出てきた台詞が両者に共通するところであるのが、なにやら時機にかなった巡り合わせであり、興味を惹かれたのである。



更に更に、対話の際に相手の内部を探ることを、私は「斥候を出す」と表現することを今年になって思いつき、気に入って使っていたのだが、「かのように」にはこんな記述があったのだ。


明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜(よ)などには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随(したが)ってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅(せがれ)にそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃(ひそか)に様子を覗(うかが)うようにしているのである。
 秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候(せっこう)を出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還(かえ)るように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。



私と全く同じ「斥候」の使い方である。特段意表を衝いた表現でもないが、一般的でない表現が偶然にも一致してしまったからには、私も文豪なのだろう。とにかく、これらはなにやら時機にかなった巡り合わせであり、みんなも野菜は不足しがちなので意識的に多く食べてください。子爵と秀麿は斥候を慎重に使い過ぎて、間に深い谷を作ってしまったが、斥候を出さずに踏み込んでおれば、絶縁状による地殻変動で大陸の分裂となるわけですから、くれぐれも斥候は使いたいものであることよ。俺はそう呟くと、静かに紫煙を吐き出した。

タグ:斥候
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2009年05月26日

牙なき人の 明日のために

何よアイツ、先輩に色目使っちゃってサ
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タグ:RYUICHI 写真
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2009年05月25日

09/05/24

紆余曲折を経て、私はショッピングモールと遊園地が一緒になったようなところに居る。自分が死ねば世界はリセットされて、数日前から再スタートされることを何故か知ったので、どんなことをしても無かったことにできると思う。
レジが番台にようになっていて、その周囲に菓子類が盛ってある店で、堂々と勝手に商品を食べている不良に便乗して、レジの目を盗んで小さいドーナツを食べる。少し気が大きくなったので、一袋五つ入りのパンを食べながら店を出る。
怖気づかずにちゃんと自殺できるだろうかと不安はあるが、まだ切羽詰っていないのであまり気にならない。
タグ:
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2009年05月21日

貴方にも関係する話

「嫌じゃ」
と吐き捨てられるなり火のついた煙管の先で額を突かれ、利吉はかっとなり、女に飛び掛って両の手で首を絞め、そのまま振り回して女を部屋中に叩きつけ、閉じた喉から苦悶の声を上げさせた。
尋常ならざる物音に駆けつけた男どもが部屋の襖を開けたのを、利吉はじろりと睨みつけ、その憤怒極まる鬼の形相に男どもが息を呑んだ隙に、女の首を掴んだまま窓から飛び降りてしまった。
硬直を解いて男どもが窓に駆け寄って見下ろすと、そこにはいつもと変わらぬ往来があり、まるで郭の二階から女を掴んだ鬼が降った椿事など無かったかのように人々は平然としており、方々訊きまわってみたが、利吉たちを見かけた者も、あの騒音を耳にした者も、郭の外には誰一人として居なかったのである。

利吉は気を失って女とともに川を流されていたところを警邏中の巡査に発見され、病院に運ばれ意識を回復し、身体に異常のないことが確認されると警察の取調べを受けた。しかし利吉は挙動不審な上に時代がかった言葉で不可解なことしか述べずにいたため、彼が何者であるか、首に指を食い込ませて掴んでいた死体の女が何者であるか、何があったのか、誰も把握出来ず、そのうちに利吉は慣らしもないまま平成二十五年の大気を吸い過ぎたために中枢神経系が異常を起こし、泡を噴いて死んだ。意味不明の供述と、時代劇から抜け出たような身なりの死体二つが残っただけで、警察の捜査は何ら進展せぬまま幾年月を経て打ち切られた。

ここで寛永八年に返ると、利吉が激怒した歴史はなかったことになっていて、女から三度も四度も煙管の先で額を突付かれ、終いには火皿をぐりぐりと押し付けられて肉がじりじりと焼けても、利吉は黙って泣いて耐え、失望と悔しさと恥ずかしさと情けなさと熱を通り越した痛みに、今にも体が真っ黒く消滅してしまいそうな気持ちになりながらすごすごと帰り、以後死ぬまで皆から馬鹿にされ、死ぬと忘れられた。心臓の半分と脾臓の消滅に因る延宝二年の死であった。この歴史の延長線上に、現在の我々は存在している。
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2009年05月20日

犬と猫、馬場と猪木、ミーとケイなど

劣等感と無いものねだりで身を捩るような苦しみがくると、中身が無いものだから体のほとんどをそっちへ持っていかれて死にたくなる。死ねば済むのを死なないから、苦しみが薄れるのをただ待つしかない。でも、その場凌ぎのように薄れたからといって、どうしたと言うのだ。


綾波とアスカのどちらも好きだが、どちらかといえば綾波が好きである。と云うと、例の、あの鍋の人は断然アスカが好きである、というより、綾波の良さが全く解らないのだという。私に「え、マザコンなの?」と問うのでカチンときたが、本当に何一つ分からないらしい。ユイから作られたとはいえ、作品内で綾波はユイとは違う綾波としての存在を確立させており、ファンが綾波を話題にする際にも母としての要素はまずフィーチャーされない。私はこれを当然のように考えていたが、なるほど、何も理解出来ていない人間が綾波のプロフィールから何か探り出そうとすれば、母の要素に何かあるのではないかと踏んでも無理ならぬことなのかとパラダイムシフト出来た。そういえば雑巾絞る綾波を「お母さんみたい」とシンジが評したこともある。
(主人公シンジ14歳のクラスメイトである綾波レイは、シンジが幼い頃に失った母ユイから人工的に作られた存在であることが劇中明らかになる)


この鍋野氏は、他人の嗜好を悪意なく否定出来る人間で、それは肝が据わっているというよりもコミュニケーション能力不全に因ると私には思われた。先天的性質か、端々に聞く不遇が形成した後天的性質なのかはわからない。
そこまで察しているのならば、そこを酌むのが人の道であり徳の積み所である。ところがコミュニケーション能力不全ならば私だって負けてはいない。そのような事情があっても、カチンときて鶏冠にきて怒髪天を衝き向かっ腹を立てて目を三角に吊り上げて怒り心頭に発したのが次の話である。ところでお前こんなの読んでて何が楽しいんだ。

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2009年05月19日

お客様に言いたいこと

投稿者:BOS (男性/30代) 投稿日:2009/05/08

必要に迫られて、宿をとったが、安い宿だったので仕方がないが、部屋自体は非常に汚く感じられた。古いせいだけかもしれないが、、、
受付も、電話での対応が、丁寧語でなく少しむっとしたが、土地柄なのかもしれない。
最初は、トイレ別の部屋に通されたが、耐えられずバストイレ付に変えてもらった。10時のチェックアウトに9時55分前にチェックアウトの催促があり、非常に不快な思いがした。



返信者:ビジネスホテル小桜館 返信日:2009/05/12

まったくそのままお客様に言いたいことです。
お客様だからといって自分のことを差し置いてホテルに責任があるように書いてありますが【道順を電話で説明しても】わかってるのかはっきりしない返事ですし。チェックインしてからも【自分がリザーブした部屋ではない】と言い張りプリントアウトした送客リストを見せても納得せず【ネットで調べても】自分が予約した部屋でないといいはり挙句の果ては諸条件も特に基本的なチェックアウトの時間【10時までに出ましたか?9時55分にまもなくアウトの時間ですと電話しましたが】や門限の時間も知らず女性と出かけるので帰りが遅くなるというので特別に玄関の開閉も教えて門限なしにしました。私どももサービス業ですのですべてのお客様に満足していただきたいのですがルールは有りますよ。あまりに身勝手な事を書いてるのでは【お客様のヒン】が疑われます。【他の口コミと比較してみてください】


http://www.jalan.net/kuchikomi/YAD_374660.html
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2009年05月18日

笑うな

笑うな 筒井康隆  新潮文庫

昭和50年に刊行されたものを文庫化したショートショート集。買ったのはちょうど10年前ではなかろうか。
幾つか面白い作品はあるが、全体としてはそう面白いわけでもない。
ショートショートといえば、渡邊浩弐のゲームキッズ(1999・2000しか読んでない)が面白かった。






以下、ある作品の結末に触れる。








「猫と真珠湾」
主人公の作家が何種類もの原稿を書いているように読ませておき、実は七人の作家がひとつのペンネームで書いていたという話。

「七人でひとつのペンネームにしたからこそ、こんなに名前が売れたんだ。おれたちが全部集まってこそ一応の小説が書ける。しかし……」
「そうとも、ひとりじゃとても大量の注文に応じきれるほどの現代の作家になれるわけがない。この二十一世紀では、たったひとりで、マスコミの要求に応じることのできる作家になんかなれるはずがないものな」


「未来」の作品に現実が追いついてしまうと、作者の意図しない滑稽味が生じることがあって、これもそのひとつだ。私は二十一世紀にいるので、そんなわけないだろうと大笑いである。七人もいないと作家が務まらないなんてねえ、そんなものは二十二世紀の話ですよ。


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2009年05月17日

芝浜2009

(前半省略:内容は既存の芝浜と同じ)

「また夢になるといけねえ」

男はそこでふっと目を覚ました。
夢、か。
束の間のまどろみが忘れさせていた現実を、次々と思い出す。
組織に裏切られ、仲間を失ったこと、家族を亡くしたこと、自分も深手を負い、いまにも命が消えようとしていること。
男は一言呟いて、目を閉じた。
「夢だったらいいのに」
そして、二度と目覚めなかった。

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2009年05月16日

ああ、そうだよ。頭が悪いわ心が狭いわで、俺はつまんない人間なんだよ。

で、結局書くのです。どう理屈をこねたところで、要するに俺はこれを話したいのだよ。
以後書くことは、あくまでも一方的な見方で相手の悪い部分だけを抜き出して書くことなので、相手への義憤やヨシノブが正しいという評価は要りません。批判なら受けます。

今回までの一連の流れ。
タグ「扱いづらい男」をつけました。

注意事項 http://qazwsx.seesaa.net/article/116112600.html
俺の失敗談。 http://qazwsx.seesaa.net/article/116307892.html
扱いづらい男 http://qazwsx.seesaa.net/article/114417334.html
09/04/11 http://qazwsx.seesaa.net/article/117324876.html
09/05/13 http://qazwsx.seesaa.net/article/119413169.html





男数人で鍋を食べに行った時のことです。
鍋の中身を粗方つついて、追加で野菜を入れようとしたときのこと。大皿に盛られた野菜を俺が菜箸だかお玉だかで鍋に入れようとすると、行儀良くせずとも一気に手掴みでいいよという話が出、そこで件の彼が笑いながら発した一言。
「もう手掴みでいいっすよ。平塚さんのオナニーして精液べったりついたまま洗ってない手で、どばっと」
ポカンとしたね。俺を馬鹿にしているのか、遠回しに手掴み止めろと言いたいのか、まったくの冗談のつもりなのかよくわからなかったが、戸惑いながら手で入れました。俺はすごく気持ちが悪かった。同席した連中はどう思ったのだろうか。過去にオナニーの話くらいはしたことあるが、なんで俺がこういう冗談を受け付ける人間だと思われたのだろうか。これは世間のスタンダードなジョークなのか? 俺がお上品過ぎるのか?
今思い出してもぞわぞわして笑い話にできねえ。俺はもう自分についての大抵のことには、被害者面で糾弾するのも不幸自慢するのも飽いて、何とか笑い話にしてしまいたいのだが、これはまだ全然そのように成立しないというか、今でもあの一言の存在が何なのかよくわからない。あれはどこの世界で通用している社交術なのか? 理解できなかった俺が悪いのか? 俺がおかしいのか? どこに地雷が埋まっているのかわからないでしょう。俺が悪い。俺が死ね。



扱いづらい男関連はいつにも増して文章が下手だと思った人は正解です。これらに関して私は平静に書くことが出来ないのです。これしきのことで心を乱してしまうことが我ながら情けなく、精神修養の意味も込めて書いていますがそれが何だというのでしょう。他人を悪く言う大義名分を得たつもりでしょうか。明日は自作の創作落語を書きます。


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2009年05月14日

09/05/13

妙に疲れが抜けないと思ったら風邪だ。欠点のひとつは、いつまでもいつまでも嫌なことを思い出してしまうことで、思い出しても何の益にもならぬ。これを文章にしようと思うが、こういうことを書くのは人間が小さいと思う。しかし、その小ささが実物大だからよいではないかとも思う。されど、己の卑小のみならず他人を悪し様に言うとなれば気兼ねする。誰に気兼ねするのやら。誰に読まれようと当人へも周囲へも何の影響もないことで、結局、理想の自分に対して気兼ねしているのです。人類の大半は嫌な奴だという思いをますます強めている。これは事実だと思うが、私自身も嫌な奴なので何だか帳尻が合ってしまい、うまく被害者面が出来ず、したところで何処に駆け込んでいいのかわからず。自分のことは棚に上げ、他人へは厳しく不寛容。自分はどうなりたいのだ。終わったことをいつまでもねちねちうじうじと言い続ける男になりたいのかお前は。それでも大人なのかお前は。誰だお前は。少しくらいましな人間になろうぜ、私よ。心臓のあたりが痛む。
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2009年05月13日

老人と海

老人と海 アーネスト・ヘミングウェイ 福田恆存訳  新潮文庫

訳文は平易で、難解な記述もなくて、子供向け世界名作全集のような読み応えだった。もちろん、程度が低いというわけではない。私がその全集の編集者だったら収録する。しかし、当の子供が読んでも、説教もまとめの結論もなくて、なんかあるけど、よくわからなくてつまらないだろうと思う。私の子供時分の文学作品読後感を思い返すに。
巻末に福田が『老人と海』の背景というタイトルで、この手の解説の域を超える23ページを書いている。
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2009年05月12日

09/05/10

抹茶ラテを机に置くつもりが、コップを引っくり返してしまい、「荘子第一巻」と「つげ義春とぼく」とメモ帳を濡らす。乾いた今でも、つげの表紙がべたべたする。

鞄に手を入れて、中の剃刀で指先を切る。うかつなことをしてしまった。これで二度目。

「ぼくらの時代」に阿川佐和子・北杜夫・その娘が出ていた。三月末の筒井康隆の日記に、北が車椅子に乗っていると書かれていたので心配していたが、番組での北は調子が良さそうだった。
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2009年05月08日

09/05/07

死にたい。無能で馬鹿で迷惑ばかりかけていて、生きているのが恥ずかしいし苦しい。俺以外のみんなで幸せになったらいいよ。遠くで誰かが言っている奇麗事も、耳元で誰かが囁いている真実も、聞くに耐えない。今まで生きてきたのが間違いで、生きている価値はないのだから死にます。死ぬのは怖いけど、今日死にます。


古人に倣って玉川で心中しようと決めた。相手がいないので押入れから南極2号を引っ張り出して、交通費がもったいないから、歩いていける近くの川で済ませることにした。川原でぷうぷう膨らませた彼女を抱きかかえ、水温がまだ冷たくて風邪を引きそうなのを恐れもせず、意を決して川に身を投げた。
しばらく入水していたが、川底で腕や背中をごりごり擦ったり、不味い水を飲んだり、息ができなかったりと、痛いわ不味いわ苦しいわでもう大変でした。こりゃたまらんと、川から上がって一旦休憩。彼女はどこか破れてしまったようでスカスカになっていたので、石を包んで川に投げ捨ててやった。
土手で体育座りして諸行無常を感じていたら、対岸で胴長を着た爺さんが、川原にバケツを置くと、何かを持って腰までざぶざぶ川に入ってきて、バッと網を投げ広げたの。投網をやってんだよ。

それでさ、今頃来たよ、走馬灯。
ファミコンジャンプUの魁男塾編の記憶がガーッて甦ってきた。剣桃太郎がジャンプワールドの危機を救うべく、塾を出る試練を受けるの。そのひとつに、塾の猛者との戦いがありまして、その対戦相手のひとりが「とあみ」って名前で、あみを投げてくるのだよ。

とあみ「わしの
  でばんの ようだな!
とらまる「おおー!
  この おとこはー!
とがし「しっておるのか
  とらまるー!
とらまる「もも こいつの
  なげあみに きをつけろー!


(戦闘終了後)

とあみ「まけたぜ・・・・・・。
じゅくちょう「おお!
  やったな つるぎよ!


弱いんだけどな、とあみ。あのぼやけたドット絵とテクノサウンドを思い出して、俺は立ち上がると腕を組んで、爺さんの投網をじっと眺めた。周りに誰もいない一対一で、俺と爺のタイマン。
網の広がる範囲はせいぜい2メートルほど。投げるとすぐに手繰り寄せ、また投げる。魚が掛からないらしい。何度も繰り返すと、爺は川原に引き上げてバケツに座り、動かなくなってしまった。そっちがそのつもりなら、俺だって負けないぞ。家に帰って文庫本を持ってくると、土手に座って読みながら、時折目を上げて爺の様子を窺った。向こうの土手に知り合いが通りかかったみたいで、世間話を始める爺。こら、俺との勝負はどうした。
話が済んで、爺がまた川に入った。しばらくじっとしていてから網を投げると、これまでとは違い、慎重に手繰り寄せる。そのまま川原に上がると網を置き、バケツに川の水を汲み始めた。魚が獲れたのだ。
網からバケツに魚を移すと、投網再開。網を投げ入れると、今度は網を引く手が重い。爺の体に力が入っているのがわかる。俺の体にも力が入る。網が水中から引き上げられると、そこには南極2号の無残な亡骸がありました。
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2009年05月07日

09/05/06

鏡台の前に立つと、私の後姿が見えている。今まで気づかなかったが、頭頂部は申し訳程度に細い髪が何本か乗っているだけで、河童のように禿げていた。私はこの頭を惨めに思い、かくなるうえは、つるつるに剃りあげようと思う。つるりとした自分を想像すると、私は想像の中の自分に入り込んで、実際にその頭で街中を歩いたり、その姿をどこからか見ていたりした。

家(現在の住居でも実家でもない知らない家。しかし自分の家だと思っている。)の台所に灰色のTシャツに白い短パン姿のビリー・ヘリントンがいる。ビリーはホームステイで来たようでもあり、ずっと前から居るようでもある。
ビリーは水で戻したスルメを1センチほどにぶつ切りにし、それを白米と一緒に炊き上げようとしている。(実際に、いつ食べようか迷っているスルメが家にある。)
それとは別に、ビリーはフライパンでも何か御飯料理を作りだす。私は湧き上がる疑問を必死に英訳して「What's cooking?」と尋ねると、パエリアを作っているということだった。台所にはもう一人、誰だかわからないが、やはり筋肉質の白人が出入りしている。白いTシャツだったか、上半身裸であったか記憶が定まらない。今思えばカズヤだったように思う。
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2009年05月06日

09/05/05

マルコビッチ大白抜き
 おい、お年玉の残りまだあるだろ。
 出せよ。
 その金出して俺のDVD買えよ。
 5ヶ月も経って、もうお年玉について言われないだろうと油断してたろ。
 定額給付金で来ると思ったろ。
 甘いよ。
 マルコビッチさんは、そういうの見逃すほど甘くねーから。
 



 それはそうと、例のNHKの子供向け料理番組の女の子、可愛さが半端じゃない。
 それも、与えられた役割をきっかりこなす健全さと、出来る子でありながら
 子供らしさを失っていないところが素晴らしい。これほどの逸材は初めて目にする。
 シャキーンのあやめちゃんを初めて見たとき、子供ながらも要求にきっちり応える仕事ぶりに
 感心したものだったが、まさか同時期にこんな完璧超人が現れるとは、運が悪い。
 ルックスと仕事ぶりの完璧超人でありながら、整いすぎた感じがないところがいいんだよ。
 是非、映像で見てほしい。そこらのアイドルなんか全然敵わないよ。
 正直、俺のDVDでもちょっと太刀打ち出来そうにない。
 



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2009年05月05日

映画「食客」の、あれ

以下の記事はネタバレに相当する内容かもしれません。御注意を。









超映画批評・韓国映画「食客」のレビューより一部抜粋。

・韓国最高の料理人として、朝鮮王朝由来の名誉ある包丁の継承者を決めるコンテストが開催される事に。そこでテレビ局員のキム(イ・ハナ)は、いまは料理界から身を引いているが圧倒的な実力を持つ若き料理人、ソン(キム・ガンウ)を出場させようと彼の住む田舎に向かう。

・半島最強の料理人を決めるコンテストの内容がまた味わい深い。「どちらが上手に牛を解体できるか」とか、お題が妙にグロ、いやダイナミックである。ただ、普通は牛の解体を料理コンテストとはいわない。


http://movie.maeda-y.com/movie/01275.htm

未見の私には作品内で牛の解体にどのような意味づけがされていたのかわからないが、単に牛の解体について言うならば、料理人の優劣を決める方法として、非常に相応しい。
荘子の養生主篇に、庖丁(ほうてい:庖は料理人のこと、丁は人名)が王の前で牛刀を用い、牛を解体する話がある。庖丁の見事な解体は手際の良さに止まらず、たてる音がまるで名曲の調べのようでさえあり、王を感嘆させた。このあとに続く部分で荘子思想が語られるのだが、ここでは触れない。庖丁は、料理人が使う刃物が庖丁(ほうちょう)と呼ばれる由来とされている。
今では牛の解体からを料理と呼ぶのはしっくりこないが、当時は魚や鳥を捌くのと同じく、料理人の仕事のうちだったのだろう。

牛の解体は、『最高の料理人を目指すのならば、歴史に名を残す丁と同じく牛を見事に解体してみせよ』という、優れて偉大な料理人への敬意と伝統と挑戦を含んだ課題と成り得る。
しかし、他の感想サイトも幾つか覗いてみたが、どうやら映画内で庖丁についての説明はないらしい。「庖丁」は日本ではちょっとした豆知識のような有様だが、「胡蝶の夢」などは荘子自体を未読でも、どこかで聞いている話であるように、韓国では「庖丁」が誰もが知っていて当然の話なのかもしれない。もしくは、韓国では今でも解体が料理人の仕事として認められているのだろうか。



映画の感想とあらすじ(ネタバレに気をつけて)

「韓国映画」雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/chuunenfan2/53447548.html

まどぎわ通信

http://d.hatena.ne.jp/madogiwa2/20090429



公式サイト
http://www.shokkyaku.com/
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2009年05月04日

新版 つげ義春とぼく

新版 つげ義春とぼく つげ義春  新潮文庫


つげ義春の漫画が好きなので買ったはいいが、私はあくまでも漫画でつげを好きになったのであり、彼の文章の方の出来はよく知らず、もしも不出来で幻滅することあらば嫌なので、五年程ほったらかしにしておいたのを、ダンボール箱の底から出てきたのを機に読んでみた。

旅日記、生い立ちの回想、温泉画から成る。
手をつけて直ぐに、幻滅が杞憂であったことを悟る。内容は実につげ義春である。
特に回想記では、強烈な赤面症だったこと、密航未遂、父親の精神異常の末の死、赤貧生活、自殺未遂など濃密。「うわあ」と思いながら読むが、ふと冷静になってみると、何が「うわあ」なのだろうか。私の「うわあ」は、驚きや哀れみや好奇心など入り混じって、見世物でも見ているかのようだが、私にとってつげが本当に見世物となるだろうか。
つげは劣等感や貧乏に耐え、それを才能や技術で作品へと昇華させており、妻子も友もある。私はつげより金に困ったことや大した不幸がないだけで、中身も、表現するものも、何もない、何もしない、先のない、つまらないだけの存在だ。



つげ漫画には実体験を漫画にしたものがあり、また、リアリティのある作風なので、創作の話まで実体験だと思われてしまっている。メッキ工場に勤めていたことや、自殺未遂で病院に担ぎ込まれたのは本当だが、下宿の家賃が払えなくなったために、便所を改造した一畳の部屋に押し込められていた話や、川から拾ってきた石を売っていた話は創作である―――と、何かで読んだ記憶がある。
しかし、ネットで少し調べてみると、これらを実体験に基づくとする第三者の記述がある。

錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり悶々の日々を送ることとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5

私のは記憶違いかもしれず、それでいて本書には次のような記述がある。

二十歳頃から足かけ十年もすんでいた錦糸町の下宿は、一日二食付きだったので初めのうちは食うことには困らなかったが、あっという間に下宿代を二年分もためてしまった。人の良い大家さんだったので一言も文句を言われなかったが、かえって無言の重圧に堪えかねて、そのうちに食事を一日一回にして貰った。そうでもしなければ積重なる下宿代を減らす方法がなかったのである。

wikiの記述が本当ならば、つげは大家にでも気を使って嘘をついているか、皮肉を吐いているようではないか。私はwikiのほうに信憑性を感じない。漫画では異様な迫力があったが、実際に8年も幽閉したって大家が面倒なだけだろう。
誰かはっきりした情報を知らないだろうか。

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2009年05月03日

軽口本集 -近世笑話集(上)-

軽口本集 -近世笑話集(上)-  武藤禎夫 校注  岩波文庫


巻頭より。

二百六十年に及ぶ江戸時代を通して、短い笑い話を集めた噺本は一千余種も出版されている。本巻では、近世初期における笑話の集大成『醒酔笑』(岩波文庫所収)に代表される「咄の類」につづく時代で、文化に参加する階層が広がり、各種の庶民的文芸が盛んになった元禄期前後の「軽口本」の中から、素人同好者による創作笑話集と、職業的話芸者の口演笑話集を五種所収した。

「当世手打笑」「当世はなしの本」「かの子ばなし」「軽口御前男」「露休置土産」を所収。
現代文に訳されてはいないが、元々が軽く読む内容であり、異体字や極端な当て字を通行のものに改めたり、会話文には「」を追加したり、脚注が豊富であったりするため、苦もなく読める。原本の挿絵もあり。巻末には類話を五十収めている。
どのような中身なのか、まず当世手打笑からひとつ引用する。
(以下、脚注は本書からの引用であるが、一部ヨシノブによるものを交ぜてある)

 物しり顔の事

物しり顔する男、人に語りけるは、「諸人のたつとぶ孔子といひし人は、いかいかたわであつた」といふ。聞く人おどろきて、「それはつゐに聞かぬめづらしき話なり。して、いかやうのかたわぞ」と問えば、「されば、二十八九までは躄にてあつた。その証拠には、論語に、『三十而立』とあるほどに」といふた。


いかい=厳い(荒々しい、恐ろしい・大きい、多い・程度が甚だしい、大層)  躄(いざり) 三十而立(さんじゅうにしてたつ)

一冊を通じた中で、良く出来た部類の短いものを選んだ。長い話でも、一話がこの三倍程度に収まる。大笑いというよりもクスリとさせる話になっており、笑うことよりも、当時の文化に触れることが楽しい。例えばこの話では、地域や階級にもよるだろうが、論語が庶民の一般教養となっていることを示しているのではないだろうか。そういえば古典落語厩火事は孔子の故事を扱う。
他も見ると、各地の名所や芝居や歌に因んだ話も散見され、文化の豊かさが窺い知れる。また、言葉が豊富で文章が巧みであること、読者がそれを解することにも、今更ながらその知的水準の高さに驚く。落語として現代にまで残っている話もある。今では使われない言葉も新鮮。例えば、放屁を「取りはづし」という。

艶話も多数。夫婦や遊郭の話に交じって、男色の話も多い。特に艶話は、教科書では得られない知識を多く得られる。


 欲深き若衆の事

とつと欲深き若衆ありしが、床入にさえなれば、物をもらひけり。その後口には、「かようの事を申すも、其方様と打ちとけたるゆへでござる。他人むきでは、かやうの事は申されまい」といひければ、兄分、大あくびをして、「いやいや、そうではない。床入の時は、なるほど他人むきにしてたもれ」といふた。


とつと(まったく、まことに) 若衆(男色の相手をつとめる少年) 床入(とこいり。同じ寝床に入ること) 後口(あとくち。後に続く約束や申し込み) 他人むき(他人同士のように情愛の薄い関係や様子) 兄分(あにぶん。男色関係で年上の男の称。念者) なるほど(できる限り)

恩着せがましく図々しい少年と、素っ気無くあしらう兄分。男色への嘲笑や禁忌を感じさせない、長閑な風景である。男女間の話でも成立するのに男色者の話にしてあるのは、それだけ男色が珍しいものではなかったことの表れだろう。


 粗相なる下女が事

ある所に、亭主、おかたとしぐみて、やうやう矢数も通り、もはや天下をとる折から、おかた、「死にまする死にまする」といはれた。次の間に寝てゐたる下女、これを聞て、そと障子をあけて、「申し申し」といへば、二人ながらおどろきて、「何事ぞ」といへば、「いや、おかつ様の生きてござります内に、給の残りをくだされませい」といふた。


下女(振り仮名には「げす」とある) おかた(お方。他人の妻を呼ぶ敬称だが、この場合は自分の妻か) しぐみ(交合すること) 矢数(やかず。性交時の運動の回数) 天下をとる(性感の絶頂を極めたときの形容) そと(そっと、静かに) おかつ様(「おかた」の転。奥様) 給(給金)

死ぬ死ぬというは今も昔も同じだが、矢を飛ばすわ天下をとるわの合戦感覚。芝居や小説に軍記物が盛んだったことの影響だろうか。


 抜けたる息子の事

十六七なる草履取ども、部屋の片隅に、れきをおやして、仰向けに寝ながら眺めたるところへ、十ばかりなる隣の息子、覗きにきたを、やがて呼びよせて、「これをなぶりてくれよ」といへば、「いや」といふを、いろいろ頼みて、銭三文やる約束にて、なぶらせけり。ひたとなぶるほどに、うつむきたる息子がはうさきくだり、水鉄砲ほどはせかけたり。息子腹を立て、「膿んだらうんだと言ひはせいで。これなら四文でもいやじや」といふた。


草履取(武家の下僕の一。主人の外出のとき草履をそろえ、替えの草履を持って供をした。大辞林) れき(〔「れこ」の転。もと、操り・浄瑠璃社会の隠語という〕指示代名詞。また、三人称の人代名詞。これ。あのもの。あの人。ある物(特に金銭)や特定の人物をさしていうことが多い。れきま。大辞林 ここでは男性器のこと) おやして(勃起させる。今でも落語家間の隠語で「おやかる」などと用いる) なぶる(手でもてあそぶ) ひた(一途に。ひたすら) はうさき(頬先) はせかけ(勢いよく精液を浴びせかける)

今でもある話だが、現実には笑い話ではない。以上当世手打笑より。


 下人の博奕好き

ある人の下男、毎夜博奕打ちに出る。内儀、つねに異見すれども、聞き入れず。亭主腹を立て、夜る夜る門口に錠をおろし、出ぬやうにせしに、ある時、かの男、少しある銭をうづかし、何とど旦那が寝入りたらば出づべしと思へども、門口に錠をろしたれば、せんかたなく、屋根を越へて隣へ出んと思ひ、屋根へ上がりける。旦那聞付けて、「屋根がめりめりいふは、合点のゆかぬ事じゃ」といへば、内儀推量して、「いや、あれは猫そうにござる」といへば、「ふふ、さては猫めか」といへば、男うれしく思い、「あい」と返事した。


内儀(他人の妻の敬称。とくに町人の妻をいう) うづかし(使う準備をする) ろしたれば(原文ママ。原本通りで正しい文法なのか、岩波による「おろしたれば」の脱字か不明) 猫めか(脚注に『原本「猫めが」』とある。岩波の手でわかりやすく書き換えたか)

宝永四年(1707。富士山が最後に噴火した年)刊の露休置土産より。
身を隠している際、相手に怪しまれて猫の真似をする「お約束」は現代にまで続いている。更に古い寛永五年(1628)刊の醒酔笑にも同類の話がある。

亭主の留守となれば、常に通ひなれたる者あり。かねての約束は、「屋根から忍び来れ。梯をかけ置かん。亭主帰りたらば、『屋根をありくは猫であらう』といふ時、猫の鳴くまねをせよ」としめし合わせて置きつるが、まことの折、男聞きつけ、「屋根をありくは人のやうな」。女房、「いや、この程大いなる猫がありく」といふに、かの男肝をけし、「にやう」というべきを打ち忘れ、ほそ声になり、「ねこう」と申しける。

更に遡れば、中国宋代の張致和(1212〜1287)による笑話集『笑苑千金』にある「両脚猫児」が源流らしい。随分と息の長いコントだ。


最後にちょっと強烈だったものを紹介する。元禄十六年(1703。曽根崎心中初演)刊の軽口御前男より。


 父なし子

下女なれど、かたち人なみに、折々御客もあれば酌に出て、思ひ入りたる人の付けさしを飲みけるに、ほどなくして懐胎し、きのどくながら月を重ね、今朝やすやすと産み落とし、見れば頭なく、手ばかりの子なり。人々ふしぎに思ひ、かの下女に尋ねければ、「別におぼへもなし。かの付きざしの時、肴に蛸を食べました」といへば、そばなる人申されしは、「さやうの事もあるべし。上の町の又兵衛の内儀は、大酒呑じやが、さかづきなしに引つかたぶけ呑まれたれば、徳利子を生まれた」といはれた。


思ひ入りたる人(心を寄せる人) きのどくながら(困る、恥ずかしいと気をもみながら) さかづきなし(徳利から直接に)

蛸を食べたせいで、頭のない手ばかりの、蛸のような子が生まれたという話。理由はともかく、このちょっと現実味のない障害児は、完全に作り話だろう。問題は、蛸の子を肯定する根拠となる話だ。徳利から直に呑んだので、徳利子が生まれたという。脚注には(とっくりご。両手のない身体障害児)とある。これは実在する。理由はともかく。
ああ、なんたるブラックジョーク。軽口御前男はブラックジョーク集ではない。こんなものが、「万年」を「一年」と書き間違えて叱られ「力落としました(落胆しました・万を一と力に解体)」と返すような小話群に混じっているのだ。
徳利子はこの話のためだけに作られた名称ではないらしい。享保十一年(1726)刊の当流噺初笑にも出てくる。

徳利子を産ませて、捨ても殺しもならず、育てしに、さんざん煩いける。医者に見せれども、脈のとり所がなさに、「この色合ひなら、ないじやあろ」といふて去なれし。また余の医者に見せたれば、才覚人にて、「どれ、脈見よ」と、首筋をつかみ、振つてみて、「いや、まだあるともあるとも」。

手首の脈をとれないので、徳利を振って酒の残りを確かめるように、首をつかんで振って脈をとる(寿命の残りを確かめる)という、現代では抗議必至のブラックジョーク。悪ぶって不謹慎なジョーク(のつもり)で喜んでいる現代人は恥じよ。300年くらい前はこの程度で通常。勿論、古今で道徳倫理の基準は違うのだが。

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