2009年02月26日

09/02/26

このひと月ほど、ヨシノブの調子が良くないことで、みんなへ大変な心配をかけてしまっていて、申し訳ない。みんなから山のように寄せられた沢山のあたたかい励ましや気遣いのコメント、返信できていませんが全部読んで、元気をいっぱいもらっています。スタッフ一同も喜んでおります。みんなありがとう!


何があったのかというと、このひと月、左の扁桃腺が腫れっぱなし。
そこから生じる体調不良は最初の一週間でほぼ立て直したのだが、腫れがひかずに、咽喉の痛みと熱が軽微に続いている。それでどうなるというものでもないが、気分が晴れない。
もうひとつの件に関しては小出しにする。これは書かなければいいことだとわかっているけれど、ここは私のブログなので思っていることがあるのなら書けばいいじゃないか、だがこういうのは紳士的ではない、しかし、と、私がこうやってうじうじと考えて下した消極的判断で何か好いことがあっただろうか。無いよ。というわけだ。



「男は四十歳になったら顔に責任を持て」(リンカーン・別人との説あり)、「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」(藤本義一)などと言われるとおり、顔には生まれついた造形と自分で作り上げた造形があると思っている。年を重ねるごとに後者が顔を成す。私がこのような顔をしていることは、私の責任である。だから言うまいと思っていた。それが大人である。
しかし、横浜市の実施した市立保育園の民営化で大きなショックを受け、私は赤ちゃん返りしてしまった。皮もかなり被っている。そこで大人の不文律に縛られず言を放つ。

俺は顔のことを言われたくないんだ。


数十年かけてこんな顔になったのは私の責任だとは思うけれど、言われたかないんだ。嘲笑されるのが嫌なのは当然として、悪意が無くても嫌だ。自分の顔は知っている。台詞の裏に止めた言わない台詞を意識する。顔が口端に掛けられるたびに意識せざるをえない。そんなつもりはないというが、責任を持つつもりでも無いだろう。勝手に責任を持たれても困る。
他にも単に造形を言われることが嫌なだけではなく、顔を見ていることの強調は顔を覗き込むのに似ていて、その観察及び当人へのその報告の会話という接近感のある行為が、私にとっては鬱陶しいのに近い。従って悪意が無いと解っていても駄目。自意識過剰だと承知している。しかし論理で解決する話ではない。
と、ここまでは対男の話であり、女から悪意なく顔を言われるのはどうかというと、杞憂である。女と口をきくこと、あまりないから・・・・・・。これまで頂戴した女からの代表的な顔評には「騙されやすそうな顔をしているね」「眼鏡いつからかけているの」があります。

嫌だ嫌だと書けば刺々しくなるから、明るく書こうとしたが、やっぱりそうはいかない。どう開き直ったところで幼稚な我侭に過ぎず、いい大人がこんなことを相手に要求するのは間違いだという意識はあるからだ。じゃあ書かずに黙っていろよ。いいえ、そうはいきません。なぜなら私は赤ちゃんだからです。バブーバブバブ。
posted by ヨシノブ at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コラコラ

引き出しの中を整理していたら、ある雑誌の切り抜き記事が出てきた。
歴史的な事件とはいえ、これを取っておいてどうしようと思ったのだろう。
せっかくだからここに書き写す。文中の太字は紙面でも太字だったもの。


『コラコラ問答』誌上完全再現

長州 なぁにがやりたいんだコラ〜ッ! 紙面飾ってコラッ!!
   なにがやりたいのか、ハッキリ言ってやれコラッ!
   噛み付きたいのか噛み付きたくないのかどっちなんだ!
   どっちなんだコラーッ!
橋本 何がコラじゃコラー! バカヤロー!!
長州 ナニコラ、タココラーッ!
橋本 ナンやコラッ!
長州 (すぐに)紙面を飾るなって言ってるんだコラッ!
橋本 オマエが言ったんだろコノヤロー!
長州 (すぐに)振ったのはテメーだろーがコラッー!
橋本 (同時に)ナニコラ、おい!
長州 ナニコラ〜ッ!
橋本 (すぐに)うっせーバカヤローコラッ!
   オマエ死にてぇんだろコノヤロー!
   あ、あ・・・・・・。
長州 (同時に)オマエ、いま、
   オマエいま言ったなコノヤロー(冷静に)。
橋本 あぁ言ったぞ!
長州 吐いた言葉飲み込むなよオマエ〜ッ!
橋本 それはオマエオマエだよコラッ!
長州 よーし・・・・・・。
橋本 なめてんのかコノヤローッ!
長州 よーし、よしわかった
   オマエいま言ったことオマエ、飲み込むなよ、なぁ吐いて。
   わかったな。ホントだぞ、ホントだぞ。
   なぁ、噛み付くんならしっかり噛み付いてこいよコラ
   なぁ、中途半端で言った言わないじゃねーぞ、
   オマエ! わかったな、コラ、わかったな、噛み付くんだな!
橋本 (すぐに)オマエにわかったな言われる筋合いねぇんだコラッ!
長州 噛み付くんだなコラッ!(と言いながら立ち去る)
橋本 オッサンなめんなよコノヤロー!!
     ※     ※
記者 長州さん、やるなら1対1という気持ちですか?
長州 時間かかんだよ。(ガチャっと車のドアを閉める)



数字で見る『コラコラ問答』

破壊王 VS 長州力
7コラ    12コラ
4コノヤロー 1コノヤロー
2バカヤロー 0バカヤロー

約1分20秒にわたって繰り広げられた常人には到底理解不能な口ゲンカは、奇襲攻撃をしかけた長州が、最初に4つの「コラ」を獲得し、終始リードする展開。破壊王は、「コラ」だけではなく、「コノヤロー」「バカヤロー」を巧みに織り交ぜ、応戦する形となった。数だけで見れば長州の「コラ」が12と断トツ。しかし、やはり「コラ」の数だけでは何も見えてこない―――。

結論

判定不能





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2009年02月25日

非夫人之為慟、而誰為慟

私は論語が好きと言いながらも、論語に関してちゃんと読んだ本は2冊だけで内容もほとんど覚えていないのだけれど、費やした時間や金額が好きの尺度ではないという見地で許していただきたい。
これから述べることは、どこかの本でとっくに書かれていたり否定されていたりするでしょうから、そういう本をご存知の方は情報をお寄せください。





先進篇10について、不思議に思っていた。

 顔淵死、子哭之慟、従者曰、子慟矣、子曰有慟乎、非夫人之為慟、而誰為慟、

顔淵死す。子これを哭して慟す。従者の曰く、子慟せり。曰く、慟すること有るか。夫の人の為めに慟するに非ずして、誰が為めにかせん。
(訳:金谷収)

これについて、呉智英は「現代人の論語」でこう述べている。『当時「慟哭」は最近親の者の死にのみ許された悲しみ方であった。その礼の作法を孔子が破ったのである。これを見た「従者曰く、子、慟せり」。従者は驚いたのである』『あの顔回のために慟哭しないのだったら、礼は、仁は、天は、一体何の意味があるのか。孔子は、礼に、仁に、天に、そして顔回に、〈意味〉を見出すために慟哭した』。
私はこの一節にただ感動していたが、やがてひとつ疑問が湧いた。
何故慟哭が最近親の者の死にのみ許された悲しみ方だったのだろうか。親縁でなくとも、悲しい者が大いに悲しんだらよいではないか。
理由のひとつは、取り乱すのはよからぬという考えに因るものだろう。
衛靈公篇2にもこうある。これもまた好きな一節。

 君子亦有窮乎、子曰、君子固窮、小人窮斯濫矣

君子も窮することがありますか。
君子も窮する。ただ、小人は窮すると乱れるのだよ。

取り乱すのはよからぬけれど最近親者だけは取り乱してもいいよ、という取り決めは、私には解禁するだけの根拠が薄い気がした。慟哭してしまうのは必然の生理現象ではないのだから、他者に禁じているように身内にも禁じてよいのではないか。もしくは血縁が重視されるとは雖も「近親者だから慟哭してもしょうがない」が通用するならば、「近親者じゃなくても親しい人が慟哭してもしょうがない」が通用していいじゃないか。それが、孔子と顔回ほどの関係にあって、両者を知る従者が驚くほどに通用していない。更に孔子の発言は弁明であり、通用しないことがますます強く読み取れる。
(書いた後になって気づいたが、孔子は君子を説いているのであって、小人を戒めているわけではない。だからここの話は筋違い。)

なぜ孔子は慟哭してはならなかったのか。
勿論、そういう決まりだったからである。葬儀は儀式であり、儀式には作法がある。
では、この作法の意味は何だろう。
「現代人の論語」には慟哭が作法であったとしか書かれていない。この根拠や説明となるものはないかとネットで探してみたが、私には見つけられなかった。


辞書で慟哭を引くと「悲しんで身を震わせ激しく泣く」程度しか書いていない。
そこで慟と哭を字典で引いてみた。

 慟 なげく。ひどく悲しむ。動は上下に突きぬけるようにうごかすこと。慟はからだを上下に動かして悲しむこと。

これは学研の漢和大字典であるが、他の字典数冊でも同じような内容だった。
哭だとやや異なる。

 哭  1、なく。大声をあげてなく。 2、葬式や墓前で声で泣く。
 「口二つ+犬」の会意文字で、大声でなくこと。犬はなくものの代表で、口ふたつは、やかましい意を示す。泣はせきあげて小声でなく。唏は、すすりなく。
(学研・漢和大字典)

 1、なく。大声を上げて嘆き泣く。 2、人の死を悲しんで泣く。葬式や墓前で大声を上げて泣く礼。 3、うたう。
形声。もと咢と同じ。激しくわめき叫ぶ、悲しみ泣く意。
(角川・大字源)

死者をいたんで、声をあげて泣き叫ぶ。またその礼。
解字 犬+口+口。犬はいけにえの意味。二口は、多くの口の意味。人の死に臨んで、犬をいけにえとし、多くの人が口をあけて大声で泣くの意味を表す。
(大修館書店・大漢語林)


呉智英の言う慟哭の作法はこれらに載っていない。
調べた中でただ一冊、白川静の字通にはあった。

 慟  声符は動。〔説文新附〕に「大いに哭するなり」とあり、弔問のとき声をあげ、身をふるわせて泣くことをいう。〔論語・先進〕に「顔淵死、子哭之慟」とあり、肉親でなければ哭するのが礼であった。哭とは、声を呑んで泣くことをいう。
1、なく。声をあげてなく。なげく。身をふるわせなげく。 2、字はまた動・恫に作る
[慟哭] はげしく大声をあげて泣く。

 哭  葬に臨んで哭泣することをいう。なく。哭はもと弔うときの礼。
1、なく。葬にのぞんでなく。なげく。 2、うたう。泣くように葬歌をうたう。

(ここの哭については正確に引用できているか自信がない。後で確認します。このままでも文意に支障がない程度には引用できています)

「現代人の論語」ではよく白川説が採用されているから、呉の慟哭作法も白川が出典だろう。白川は高く評価される著名な漢字学者ではあるが、彼の見解に同業者から異論がないわけではない。上記の引用でも、他の字典が哭に大声を記しているのと反対に、白川は声を呑むのが哭だという。私には正否の判断がつかない。

そういうわけで、なぜ孔子が慟哭を指摘されたのか、その根本の理由は我が調査では明らかに出来なかったのである。終わり。










これだけでは寂しいので、改めて原文を読んでみる。金谷の現代語訳・訳注も併記する。


 顔淵死、子哭之慟、従者曰、子慟矣、子曰有慟乎、非夫人之為慟、而誰為慟、

顔淵死す。子これを哭して慟す。従者の曰く、子慟せり。曰く、慟すること有るか。夫の人の為めに慟するに非ずして、誰が為めにかせん。

顔淵が死んだ。先生は哭泣して身をふるわされた。おともの者が「先生が慟哭された!」といったので、先生はいわれた、「慟哭していたのか。こんな人のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするんだ。」
*身もだえする烈しい悲しみの表現は、孔子の行動としては異例であった。従者はそれを驚いたのである。


白川説を前提とした呉の解説を重視せずに考えてみる。
顔淵が死に、孔子が慟哭する。従者が孔子の慟するを指摘。孔子、自身が慟することを自覚、慟することへの決意表明をする。
指摘するくらいだから、金谷が訳するように孔子らしからぬ行動であったことは堅い。但し、それが孔子個人の「らしからぬ」なのか、弔いに於ける「らしからぬ」までを含んでいるのかはわからない。終わり。










2回も終わってしまったが、私は新説じみた結論を出して格好良く終わりたいのだ。
そこで白川説へ歩み寄り、泣き方に肉親とそうでない者の区別があったと考えてみる。
何故その区別があるのか。
誰かが死んで最も悲しむのは、一般論としてその肉親・家族たちである。現代がそうで、ましてや古代の儒教的社会では現代よりも一層強い倫理と血縁の重視で、肉親とされていたことは想像に難くない。それは単に自然な感情としてだけではなく、倫理に反しないために、肉親が最も悲しむべきものと社会から要求されることでもある。
ここに社会的な悲しみの階級が生まれ、肉親が最上部に位置する。上部と下部には区別をつけねばならない。そこで泣き方を分けたのではないだろうか。弔いで肉親が最も悲しめるように、彼らのみに慟哭を許し、他の慟するを禁じ、肉親の特権を作ったのである。差別化により、肉親は大いに泣くことで倫理を強く実践し、周囲はまた慟哭を譲ることで悲しみ上位者である肉親を立てた。謙って目上の者を立てること現在の礼儀作法と同じである。肉親は作法に則り、社会に自分らが倫理的であること、礼儀正しいことを示し、社会はそれを認識した。自分たちこそが最も悲しくなければならないという肉親の望みと、肉親にこそ最も悲しんでもらわなければならないという社会の望み。
良かれと思って始まった作法だが、いくら儀式とはいえ形式的が過ぎた。故人を悼むための作法が作法のために故人を悼んでは本末転倒である。孔子はそれに気づいて慟哭を改めなかった。何のための慟哭か。それは―――。

と、これで白川説による慟哭の作法化について、ひとつのストーリーが成り立ったのではないか。大人の対応でひとつ成り立ったことにして頂きたい。今度こそおしまいです。終わり。

posted by ヨシノブ at 03:51| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月22日

09/02/21

大阪へ招かれて、大勢で長机を囲み、話に興じていると、机の端にこんもりと盛られていた桜色の肉の塊が置かれているのを見つけた。話がちっともその肉へ及ばないのでだんだん気になり、あれは何かと問うと、今まで笑い顔だった地元の人々が急に項垂れ、あれは薄切りにした牛の生肉に砂糖を塗したものだ、と話してくれた。
肉が目の前に置かれた。肉の一枚一枚が両の手の平より大きい。全体を薄く砂糖が覆っているが、それでも上等な肉であることが一目でわかる。
好きなだけ食べていいが、うまくないよ、と言われた。その言葉には大阪の恥を晒すような絶望の響きがあった。
何もそんなに暗い顔をすることはないだろうと思いながら、口に入れる。ああ、これはいい肉だ。何だ、そう悪くないじゃないか。肉がすごくいいので、砂糖もあまり気にならない。これだけの肉なら、私はまったく構わないのに。いやあ、いいよ。砂糖の甘さがちょっと気になるけれど、肉がいいからどうということはないよ。うん。しかし甘いね。いや、それでも肉が勝っているから、まあ、甘いけど、肉がさ、うまいよ。うん、うまいけど、確かに甘いね。ちょっとこれは、甘いな。これは普通の砂糖とは違うね。和菓子のような甘さだ。甘い。結構甘いね。かなり甘い。甘すぎる。甘い。砂糖の味しかしない。甘い。甘ったるい。こりゃダメだ。
この砂糖肉は大阪のある企業が作っていて、売れないし不評だし誰も食べないのだが、会長の発案による商品で生産を止められないのだそうだ。みんな悲しそうな顔をしている。
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2009年02月21日

09/02/20

不愉快で眠れないというのが情けない。
下手に突付くと自分で自分の首を絞めるというギミックを搭載した扱いのややこしい男でありながら、よくもまあ私に某だの某だのといった友人がいたものだなあ、と感心した。
私はてっきり人望がないものだと思っていたが、その反対で、厚い人望を有していたのだな。
道理で学級委員長選挙では黙っていても票が入ることがあったわけだ。これが人望というものなのだよ。
それが三票から五票で選挙戦はいつも最下位の討ち死にであったところに、何か在る。
つくづく、嫌な奴だなあ、と思っているよ。わかっているんだよ。これ読んで君が何か楽しいか面白いかなんてことは、わかっている。湊くんの頭を鉄棒で割りそうになったこと、今でも申し訳なく思っています。おどけて痛がってくれてありがとう。すごく救われました。

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2009年02月19日

台所のおと

台所のおと 幸田文  講談社文庫


躾の良さが溢るる文体は、世間の労苦を知らぬが故に得たのではない。嫌なこと嫌な人はあったが、それに引きずられず染まらず通したもので、強い芯がある。だから嫌な人物を書いても文章が下品にならない。しかし人物の嫌味はしっかり出ている。かといって、そこに食ってかからない。相容れない相手だろうに、どこか相手を認めている。そこに厚みがある。

尻から二番目に収められてる「ひとり暮らし」は随筆のようでありながら、主の呼び名が「文」ではなく「あや子」で虚実の程がちとわからない。文体も早々に「できちまった」などと少し蓮っ葉、というには可愛らしいが、兎に角肩の力を少し緩めた言葉が出てきて全体がぐっと柔らかになり、それまでの他所様を語る小説とは違った印象を与えている。それでいて弛んだところがない。

身の美しさで躾とはよく出来た文字で、幸田の文章は、日常の身のこなし、それこそ台所のおとの立て方から仕込まれた、生活感ある美しさの滋味を持つ。
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09/02/18

また今日も失態を演じてしまって申し訳ない。平身低頭し、介錯無用と断って斬首刑に処され、これだけでは私の気がおさまりませぬ、と井戸に七回身を投げた。
それでも家に帰れば「粉や!粉や! 粉もってこい!」と怒鳴りて「粉を飲みなはれ、じゃいもも食べなはれ」と一人二役、冷蔵庫から粉チーズだして直に口へ流し込み茹でたジャガイモを食うという春団治の生き写し、を複写に次ぐ複写の末の成れの果て。そうです、書類を持っていかなかった私が悪い。
今日はスパゲティーでした。明日はチャーハン、明後日は麻婆茄子の予定。


お前は知らないだろうが俺は知っている。
posted by ヨシノブ at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月17日

扱いづらい男

またその話かと思ったか。ここをどこだと心得る。俺の個人的なブログであって、泣こうが喚こうが法に反しない程度に好き勝手やるのだ。そうやってネットに個人的なスペースがあるかのように思う人がいますが、ネットというのはネットワークであり本来個の独立したスペースではなく、オフラインから隔絶した世界でもありません。ネットはあなたの私的空間ではないのです。法だけではなく、公の場のマナーということを考えなければなりませんよ。
俺の人間が失格している。要するに俺はケチである。何のかんのと論うが、自分も同じようなことをする。自分では違う、一線引いていると思っているが、世間はそう見ず、同じか好くて五十歩百歩だと見る。多分そうなのだろうと殊勝にも自分で認めておきながら、しかしその五十の差が肝要なのだよ一線だよと理屈を捏ねる。お話にならない。そうわかっているから話さない。
山本夏彦の引用したいのがあって目次から見当をつけてその部分を当たってみるのだが、一向に該当しないし、探すの面倒で、前からまた読み返したいと思っていたのもあり、二十冊ほどを読み返すことにした。読むと、いいのだ、これが。つくづくこの文章が好きだね、俺は。たまらぬ。 笑う。
と、そこへ俺の心情を言い表したかのような一文があって、これだからやめられぬ。そりゃあ、それが書いてあることは前から百も承知でありますが、あやふやな記憶を手繰るのと直に読むのとではまた違う。立派なことを言うのはそのうらに吝嗇が潜むことがある。俺の言う御立派には吝嗇がある。と、自覚自戒してそれでも言う。人間は嘘を言うもので、ここで嘘を言わなくてどーすると思っている。自分でも半ば嘘だとわかっている。しかし全部が嘘ではないのだ。一分の大事な本当を、或いは嘘を、守らんがために俺は大仰な嘘をつくよ。ははは。また御立派なことを言ってやがる。おお、幻の城を守る衛兵のようだ。つまらぬ意地だと言うけれど、この世は些事から成ること夏彦は何度も言った。
posted by ヨシノブ at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新展開?

竹熊が大絶賛。「デジタルマンガのシステムと見せ方においては100点満点」だというWEBマンガ「HACK TO THE BRAIN」。

HACK TO THE BRAIN
http://hacktothebrain.jp/

たけくまメモ :WEBマンガの新展開「HACK TO THE BRAIN」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/webhack-to-the-.html



私はチャプター2という表示が出るまで読んで、あとどれだけあるんだよと思い放り投げた。ストーリーが面白くないというだけならばまだ我慢ができた。しかし、竹熊の褒める「システムと見せ方」が私にはまったくプラスとはならず、我慢ならなかったのだ。
どう我慢ならならないかは掲示板での不評書き込みに譲る。






さて、なんで竹熊はこれを高評価しちゃったのか。

竹熊自身が「マンガとアニメーション、コンピュータ・ゲームの折衷表現」と言い、掲示板でも指摘されているように、HACKはゲーム的演出である。そして本家の面白いゲームにはとても及ばない。
ここにひとつ思い出したことがある。

私の老父はたまにパチンコを打つ。儲からないのも、パチンコで身上を潰した人も多いのも承知の上で打つ。パチンコを打たない私はそれを不思議に思い、なぜ損をするとわかっていても行くのかを問うと、こんな話が出た。

最近のパチンコ台は凝っていて、演出がすごくて面白い。リーチの絵柄がたくさんあったり、リーチによって台の光りかたが違ったり、タイミングにあわせてボタンを押したりするのが面白れえよ。ピコピコみたいじゃよ。俺がパチンコに行くのは、お前らが一生懸命ピコピコをするのと同じよ。何がそんなに面白いのかと思っていたが、面白れえなあ。
ははあ、パチンコ屋はいわばゲームセンターなのですか。
おうよ、まるでゲームセンターじゃよ。

合点がいった。パチンコにはギャンブルの楽しさだけではなく、父の世代が経験してこなかったコンピューターゲーム的な楽しさがあるのだ。経験が無いから耐性がなく、何もかもが新鮮で、楽しいからといって今からドラクエやストUを始める訳でもないため、パチンコが唯一無二のコンピューターゲーム的存在となってしまい、結果通うようになるのだ。父は自制してたまに1円パチンコを打つ程度にしてくれているが、自制の効かない人に猛毒であろうことは、一生懸命ピコピコをやっていた私にはよくわかる。


そこで憶測なのだが、竹熊はこれまであまりゲームをやらなかったのでゲーム的なものに耐性があまり無く、ついうっかりとHACKを高評価してしまったのではないだろうか。2005年のログにこうある。

たとえば「モニターで読むマンガ」を想定した場合、それは終局的にはアニメやゲームノベルと大差がなくなるはずです。となれば、『ほしのこえ』や、俺個人はほとんどやらないんだけども『君が望む永遠』とか、そういったゲーム形式の物語は「マンガのひとつの進化型」となりうるのではないか。
http://209.85.175.132/search?q=cache:2tZz0ACYgCMJ:takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/post_5.html+site:takekuma.cocolog-nifty.com+%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp

ほら、やんないんだよ。昔ファミ通に連載持ってたけど。
毎日読んでいるわけではないが、ブログでもゲームはとんと話題に上らぬ。

竹熊は前からwebマンガにも強い興味を示しているんだけど、ゲーム世代がメインの読者層・作家層となるであろう世界で、ゲームをあまり知らない竹熊の評論にはズレが生じる。今回のはまさにそれだろう。掲示板でも指摘されているように、こういう見せ方の手法は特にゲームでかなり模索されている。知っている人から見れば、そういう見せ方を漫画に流用しただけであって、特にこの作品をほめる理由はない。面白い(うまく活かしている)ならまだしも。
竹熊の感覚が今からゲーム世代に追いつくとも思わないので、この分野には評論家ぶったことを言わず、門外漢として教えを請うような態度で挑むべきだと思う。
「マンガとアニメーション、コンピュータ・ゲームの折衷表現」というのには気づいているのに、どうも竹熊からはゲームについての興味が感じられない。












と、以上を書いてから改めてHACKを最後まで読んでみたけれど、感想は変わらなかった。
竹熊が最初は「100点満点」とか「成功」とかいう第三者にも通用させる表現をしているのに、掲示板で不評なのがわかってトーンダウンし、評価を訂正するわけでもなく「俺は可能性を感じた」という個人的な感想表現にシフトさせているのが小狡い。「マンガを原理的に研究しようとしている人間にはとても面白い作品」てのも、ゲームを知らないことへの含みがないのが気にかかる。夏目房之介はゲームやるんだろうか。
ところで博士の瞳が描かれていないのは何なの。

これまでは漫画を語るのに映画・文学・美術あたりに通じていてどうにかなっていたのが、デジタルへ移るとアニメ・ゲームにも通じていなければ論が立たなくなると前から考えていたが、ついにそれを目の当りにした気分だ。特にゲームなんてのは教養とは対極的で軽薄的な位置におかれているため、今まで教養に満ちた漫画評論をぶってきた人がどれだけここに降りてこられるか。また、その感性についてこられるか。
HACKのやってることって、与えたダメージでグラフィックが変化(次のコマが現れるまでに「時差」が設けられている)とか必殺技のカットインとか(最初のコマの上に次のコマが重なったり、最初のコマの右側に次のコマが配置されたり)と大差のないことで、見せ方も良くない(面白くない)と、俺は思うのだがなあ。具体的には思い出せないけれど、アニメでもそういうのがあるよね。例えばギャクシーンで背景にキャラの顔がコマの重なりのように出て、会話が続いたりやつ。
それをHACKが新しいことのように言うなんて、もっかい言うけど、竹熊はゲームやんないからこの程度のことで喜んじゃっているような気がするのだよ。
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2009年02月15日

09/02/15

俺は狭量である。それはわかっている。しかしこのスタンスを変えなければならないとは思わないし、変えるつもりもない。ここは俺にとって大切なところだから。そういうのじゃねえから。これこれこういうことがあった。これは、こう流すべきだったのかもしれない。だが、俺はこれを流すことができない。どういう文脈で捕らえているんだ。そういう話じゃないんだぞ。意図的な誤読ならば気にならないとということでもない。それがそんなにそうか。今だけ堪えればすむ問題ではない。これは前からこうで、これからもこうだ。どうですか。俺が悪い。覆水盆に返らず。俺が俺を通そうとしないのが悪い。それ俺の感覚じゃねえんだ。俺は自分で自分が苦しい。人間に向いていない。
相談をしているわけでもない。道は見えている。俺に分があると確信しているので肯定してもらえるだろうという期待もある。否定されても納得しない。俺は話を聴いてほしいんだ。貴様に伝えたい俺のこの気持ちを。そして、わかってほしいんだ。

レタスチャーハンを作りながらチエコに話を聴いてもらった。あいつがどういうつもりでこの話を聴いてくれたかは知らんが、俺の言い分に納得してくれたようだった。お前だけだよ、こんな話が出来るのは。あ、このケチャップおいしいでしょ。よかった。はい、コーヒー飲みます。
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2009年02月13日

09/02/13

一旦筆が止まると再開が難しい。書かぬでもこんなもの義務も義理もないのだから一向構わぬのだけれども、書いたほうが自分が満足するのだからしょうがない。誰の益にもならぬ。実のところ私の益にもならぬ。たいした満足にもならぬわりに欠いたら不満が大きい。
メモを取ったがまったく使えぬ仕上がり。ははは。頭の両側に犬が吠えている感覚。暗示が効いている。
後悔しているのだ。やめりゃよかったんだあんなもの。それを、いちいち深い傷を作らなきゃ思い知らないなんて本当に、つくづく、ねえ、自分は、死ねばよかったのだよ。私はこれまで何度も宣言してきたけれども果たされないから今日も言うよ。私は人間らしからぬものになりたい。感情、欲求、自分というものを極力押し殺して亡くして、笑うときは上辺だけで、心は虚無で満たして。黒い犬が二匹で吠えている。
わからないように書いたからわかるような話を書こう。20名様までとある懸賞に母が父の名を使って2枚応募したのだ。葉書を。それが当選した。2枚とも当選したのか1枚当選してそれがペアチケットだったのかは知らん。聴いたが忘れた。とにかく両親はチケットをロハで仕入れる段取りがついて会場に行った。そしたらロハ券引き換え場所がちょっとした行列であったと。ここまでならばその新聞では20名までだが、他の媒体でも20名、また他で20名、どっかで30名という具合にあちこちで配っているのではないかという学説が有力だが話を聴くに2次抽選で選ばれましたなんて人がいて妙な具合なのだ。幾らなんでもそうそう行列作るほどの無料招待をしていたら公演がなりたちませんがな。お前もそう思うだろ。な、で、そう、そうなのだよ。俺もそうだと思う。チケットが売れていないんだよ。それで空席ガラガラにするわけにはいかなくて落選応募者に2次当選ですの仕組みで只券を配りに配って席を埋めているのだ。威信に関わるタイトルだもの。でも面白くはなかったって、母が。すごいことはすごいけど面白くはなかったって、母が。タダで見る分には悪くなかったけど面白くはなかったって、母が。正価で8000円もするのに、ちゃんと買った人がこんなにタダ券を配っていることを知ったら気分が悪くなるだろうね、って母が。あと面白くはなかったって。実態はそんなものなんです。
posted by ヨシノブ at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

砂の女

砂の女 安部公房  新潮文庫


10年近く引き出しの中に投げ込んでいた一冊で、こんなにも読まないのだったら捨ててもいいのではないかと思ったことも数度、しかし生来の物持ちの良さが勝ったね。いや、生来というわけでもない。SDガンダムのプラモは捨てずにとっておけば良かったと今でも思うよ。まさかBB戦士が生き残るとは思わなかったもの。SDの厚い作りが好きだったんだ。BB戦士は兜を取るとつるつる坊主というのも受け入れがたくてな。武者だのナイトだのというアレンジは好きだし、人間化された機体が兜を外すとどうなるかを考えるとあれが最も合理的であることはわかるのだが、坊主頭ってのが中学生みたいでいただけなかった。ビックリマンシールも取っときゃよかった。カードダスは聖機兵編が辛うじて一部残っている。インディガンダムの正体がジムヘンソンさんとこの息子だったとはな。ええっ、あいつが!って俺も思ったよ。伝説のゴーレムに家を踏み潰されたのをリアルタイムで見ていたからさ、可哀想な役回りから出世したなあって感慨深かったね。初めてサタンガンダムを倒して城に帰ったときの衝撃、あれはたまんなかったね。

昆虫採集に出かけた男が砂に埋もれつつある集落に囚われ、侵食する砂を掻き出す日々を与えられる。男はそこから脱出を試みる。
一見男は可哀想な被害者なのだが、性格が悪いのであんまり可哀想な気がしない。閉鎖された空間に囚われた男というのでカフカの「城」を思い出したが、内容は城よりも肉感的とでもいおうか。文章が少し翻訳っぽい。
放り込まれた穴の中では生活と砂掻きの仕事を共にする女がいる。
男は穴の中でもそれまでの人生でも誰かに心を許そうとはしない。求めようともしない。そのような交流は彼の観念に存在していない。まだ誰かに未練のある私には彼の行動原理がある種不合理であるようにも思われる。愛情が欠けた男。彼が最後に囚われた欲求は滑稽なくらいで、嗚呼そうか、図鑑に名前が載るのと同じか。彼は幻の城を独り守る衛兵で、城が欲しかったのだ。本来の城は図鑑で、代償としての装置。誰もいない城。そうか、すると彼はまるで観察対象だ。
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2009年02月11日

行ったか否か

TVタックルの特番での対馬の話題での一幕だったかと思うが、勝谷さんが反対意見の相手と遣り取りをする中、「貴方は対馬に行ったことがあるのか。」といつもの感じの大声で言うので、とりあえず呆れた。この「○○に行ったことがあるのか。」は他でも聞いたことがある。もちろん勝谷さんは○○に行っている。
でもさ、現地に行っているから何だというのだろう。
小田実さんは「何でも見てやろう」の精神で北朝鮮を見、えらく褒めていました。
現地取材した小田さんの言うとおり北朝鮮は素晴らしい国ですか、勝谷さん。
行ったから何だ。行ったか否かは論理でも主張でもない。
見ると見抜くじゃ大違い。
見てる客に種を見抜かれないのが良い手品師です。


前回の都知事選の際に、森田実さんが石原3選はないと断言して、「100人くらいの人と都知事選について話をしたが、だれ一人、石原を支持する人はいなかった。」なんて言っていたのも、言わば「見た」に属することで、そりゃあ森田さんのお友達やその意向を知る人で石原支持を言う人がいなくても不思議ではないので、森田周辺100人の支持不支持なんて石原の当落には特に関係がないんだよね。得票率51パーセントで石原当選したし。次点の浅野で30パー。
見たけど見抜けなかった一例。



森田「石原を支持する人はいなかった」
http://qazwsx.seesaa.net/article/38216914.html
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09/02/10

昨夜は悪いことが悪いタイミングで重なり、随分と苦しい気持ちになった。自分にもまだこんな気持ちが残っているのか。
俺はもう駄目だ。前から駄目だが改めて駄目だ。

尊厳死の合法化を巡っての番組で、ある人が神様から貰った命だから合法化は駄目だといっていたが、何で議論の場でそんなことが言えてしまうのだろうかと、俺は思ってしまうのだよ。その人、医療器具を体に繋いでいないと生活できない人でさ、もうそんなじゃないと生きていけないのならばもう生きていなくてよいという神様の思し召しじゃないのかとか政教分離に反しないかとか意地悪なことを思ったのだ。どこの神様かしらねえけれど。神様が死ねと言ったら死ぬのか。死ぬか。エホバの輸血拒否なんてのがあったな。


前の風邪の時に書き忘れていたのは、洗濯しようとした服を着たことだった。

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2009年02月10日

09/02/09

何かする気力なく何もせず。
奥底では叫びだしたいような衝動があるのだけれど、その上へ重く厚く被さったものがあって、そこへ目鼻がついて自分の顔が造形されているような気がする。



頻頻尿意を催すのは何事かと思いきや体調不良であることが後々現れた症状でわかった。
そういえばこうなる。すっかりわすれていた。
脳を包む薄皮がぢりぢりと焼けるような信号と皮膚の中に潜り込んだぞくぞくする熱っぽい寒気。



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2009年02月04日

09/02/04

どれみの思い出や転寝により体調不良。頭がぼんやりと重い。
私はいつまで生きているつもりなのだろう。もっと生きることに消極的になり、早めに死にたい。


鶏肉と玉葱を塩で炒め、茹でたスパゲティと絡めてバジルを少々。
急にスパゲティを食べたくなり、普段は出来合いのソースを使うばかりでいたのを有り合わせで作ったら、意外とおいしかった。
これはイタリアの家庭や下町の料理屋で出される、質素ながらもオーソドックスなスパゲティの食べ方であり、イタリア人が食べるスパゲティの大半はこうした気取らないものなのだと勝手に想像した。



私はたまに「嘘でもいいから愛しておくれ」という言葉が脳裏に浮かぶことがあるものの、その出典がわからなかった。このたびコサキンのことをちょっと調べていたら、この番組で取り上げられたマリア四郎の曲「もだえ」の歌い出し「嘘でもいいから愛されたいの」から来ているのだと思い出した。私はミリオンナイツで覚えたと思うが。


posted by ヨシノブ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エピタフ

とうとうTBSラジオ「コサキンDEワァオ!」が終了する。過去リスナーだった私にも少しさびしいものがある。放送時間の移動、短縮、録音放送化と、近年番組が不調である様子は聞いていた。
番組を聴かなくなっても、番組本は見かければ買っていた。何本か録音したテープもまだとってある。

異質なものが局所的にでも注目を集めると、その影響を受ける人、追従する人が現れて異質が周囲に浸透し、相対的に原型の異質さが薄れる。「俗化(*1)」する。これは宿命的であるが、私が聴いていたころのコサキンの異質さは、私の知る限りあまり俗化しなかった。
ここで考える俗化に一例を挙げると、荒木飛呂彦は見事に俗化した。今や二次創作にはパロディが溢れかえり、一次創作でもパロディにされ、人々の会話に荒木漫画の台詞が引用されたからといって彼らが熱烈な荒木マニアだというわけでもない。実体化した超能力で戦う漫画はジョジョが先駆者であるという話の真偽は知らないけれど、それに説得力を持たせるほど荒木の異質は大きな影響を与えており、今時のマンガ好きな子供がジョジョを初めて読んでも、スタンドという発想に驚く者はそういないだろう。
漫画家荒木は俗化したから駄目という話ではない。それどころか荒木は本来もっと早くこれほどの扱いをされなくてはおかしい漫画家だったと思うし、俗化自体の是非はまた別である。
コサキンDEワァオは27年半も続いたラジオ番組でイベント、本、CD、ビデオと放送外活動も盛んだったのに、コサキンの異質を模倣出来たものはいなかったように思える。また、あったとしてそれが好評を博して大きく持続出来た例はないだろう。少なくとも「水野晴郎ちゃん」という扱い(*2)に代表されるようなコサキンの異質がファンの外へ広がるようなことはなかった。輪が大きいだけで完全な内輪受け。これが凄い。コサキンの輪の中にいる者は、もっとコサキン的なものを欲したはずである。輪の大きさはコサキン的異質の需要を示している。だから周囲に擬似コサキン的何かが出来、そこへ供給を求める輪が出来てもよさそうなのに、それが出来なかったのは、他者にはこの輪が作れなかったことを意味する。また、輪の外にはほとんど理解されなかったことでもある。三島由紀夫「旅の墓碑銘」で語られる個性に近い。

「僕の理念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によって表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものじゃない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有しているんだからね」「では、表現以前の君だけが君のものというわけだね」「それが堕落した世間で言う例の個性というやつだ。ここまで言えばわかるだろう。つまり個性というものは決して存在しないんだ」

ティラミスが売れればあっちこっちの店でティラミスが出たのに、コサキンというデザートは売れたのに直営店でしか技術的に生産出来なかったようなものでもある。ジョジョよりもこっちの例えが短くてわかり易いかな。いつものことながら文章下手でごめんね。

今一番強く思い出されるのは、ユニーク関根の「今日はいつもの茂みを飛び出して」という台詞。いつもの茂みってどこだよ。ユニーク関根は面白くないという設定だったのに、何度も聴いていると「ユニユニ」で笑うようになってしまったのが悔しかった。



*1 俗化は本来、高尚なものが世俗に染まることを言うが、ここでは原義へ厳密には従わない。広く読まれるジャンプ作品と、それに比べてリスナー数の少ないラジオ深夜番組の影響を同列で比べるのはおかしいが、荒木はあくまでも俗化説明の一例。
*2 コサキンソングは含まない。ミリオンナイツ、伊集院光のラジオ、名盤解放同盟(アプローチの仕方は違うが)等、有名無名を問わずほぼ同じ内容の輪が他所でも出来ているし、コサキンに源流のある企画でもないだろう。余談。コサキンが火をつけたと思われ、ミリオンナイツでも地獄谷からの一人GSとして大人気だった「スナッキーで踊ろう」を宮村優子のラジオ「直球で行こう!」でも取り上げたことがあり、例によってブース内は大笑いだったのだが、その後スナッキーの歌手海道はじめの孫を名乗る人物から「おじいちゃんを馬鹿にしないでください」という内容の真面目な苦情が届き、宮村が馬鹿にする意図ではないと弁解、謝罪をしたことがあった。コサキンには番組内大ヒットを受けて海道自身が出演したこともあり、「孫」の苦情は過剰反応だと思う。海道は静岡清水の出身で、ミリオンナイツではスナッキーをかけた際、赤坂泰彦が「静岡県清水市で聴いている貴方。ジモッチじゃないですか」と発言したことがあり、私はこれが妙に面白かった。マサオのリミックスタイトル今でも空で言えます。
posted by ヨシノブ at 03:04| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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