水谷は歌が下手である。しかしその自覚がないかのように、ノリノリ(大変恥ずかしい表現で躊躇したが、これが最も的確な表現である)で歌うのだ。これがいい。水谷の人柄の良さが歌を通じて溢れている。
彼が歌うときには、その歌の主人公になりきって歌っているのだと、仄聞したことがある。
私が感じた水谷の人柄の良さは、本当はその歌の主人公のものなのだろう。それを実在の人物のものに感じさせたのなら役者が上手いということで、水谷自身の内面が出ているのならそれはそれでよく、どちらに転んでも不満はない。
歌うことも演技とするならば、時折見せるかわいらしさは、意図せぬ副産物だろうか。
水谷自身の落ち着いた大人の声で語られるナレーションと、歌自体のかっこよさ、下手な歌唱のかっこわるさが相まって、水谷は時折かわいらしいのだ。更に昔の自分の映像や、歌詞にあわせての、まるで「楽しくて仕方がない」かのような笑顔をみせるものだから、尚のこと拍車がかかる。
明け透け一目瞭然の、かっこよさとかっこわるさの大きな落差。どういうつもりなのだろう。
2006年トリノ冬季五輪開会式、ルチアーノ・パバロッティはオーケストラを従えてアリア「誰も寝てはならぬ」を『歌った』。しかし実際にはパバロッティの健康状態を考慮し、事前に録音したものに合わせて『歌っているふり』をしていたのだと、指揮者レオーネ・マジエラが後に明らかにした。オーケストラも『演奏しているふり』だったという。
私が思い出したのは、デビット・リンチ監督の映画「マルホランド・ドライブ」で最も好きな場面だ。主人公と友人はクラブのステージに立った女の情感豊かな歌に感動して涙を流す。突然女は倒れる。女に駆け寄るスタッフ。怪しや、歌はまだ続いている。何事かと訝しがる主人公ら。慌しいステージに隠されていた音楽再生機器があらわになる。涙を流し声を震わせて『歌った』あの女は、本当は『歌っているふり』をしていたのだ。
ステージの司会者は「全てはまやかし」と言う。
伊丹十三「音楽というのは耳や鼓膜のために書かれたのではない。心に向かって書かれたのだということを今一度思い出していただきたいと思うのです。」
全てまやかしなのは、他人だけではない。自分の心だって、一体どれだけがまやかしではないと言えるのだろう。自分とは何か。哲学も宗教もこれを問い、その解釈は深くなれば深くなるほど難解になる。難解と思うのは、それだけ自分が何か把握できていないからである。自分だけはまやかしでないと、何故断言出来ようか。
まやかしに浸りきって、それでも我らは音楽から離れられない。
音楽には、何かまやかしではないものがあるかのように思っている。そんなこと、わかるものか。
電波に乗ってやって来た水谷豊が、どういうつもりでノリノリだったのか、誰にもわかりはしない。どこまでが演技で何が本音か、知る術はない。それでも歌を聴くのだ。聴いてしまうのだ。
「わからないことばかり でも安心できるの」(マカロニ/Perfume)



