2008年03月31日

生きているのが嫌になった夢

好きな女がいる。彼女はいくらか精神を病んだのと、純粋に私への興味を失ったことから、私を避けていた。
しかし今日は共通の友人を3人交え、私の車で遠乗りすることになった。彼女の調子はよいようで、友人らと笑いあっている。
食事を終えて、海の見える映画館へ行った。そこで私は近日公開の気になる外国映画をみつけた。面白そうではないものの、彼女とそれを見たくなって、後日一緒に見ようと誘うと、彼女はいつかのような笑顔で頷いてくれた。
彼女は窓口へ、自分の分の前売り券を買いに行った。
その後少ししてから、私も前売り券を買った。しかし券を見てみると、それは別の映画の券であり、窓口へ取替えにいくと、手違いで目的の映画の券が用意されておらず、間違って別の券を渡していたことがわかった。
もしやと思って彼女の元へいくと、彼女は券を間違っているばかりか、同じ券を何十枚と買い込んで、束になったそれを細く巻いてぎゅうぎゅうと握っているのだった。
私は足元にひびが入るのを感じた。
戸惑いながら彼女へ、券の交換と払い戻しをしてもらおうというが、彼女は慌てたような困ったような顔をして友人の陰に隠れ、座り込んでしまった。
私は彼女が破滅的に狂ってしまったのを知った。彼女はこの先の一生、心の休まることがない。常に戸惑い、怯え、有効な対処ができないまま暮らしていくのだ。拒絶された私に手助けできることは何もない。私の存在は彼女にとって、ただただ嫌悪と恐怖の対象でしかなくなってしまったのだ。
絶望と無力感で足元が崩れ落ちていく感覚に襲われ、私は身動き出来ない。
この段になって何故か私は、この映画館が、高い崖の先に建っていることに気づいたのである。
崖の麓を波が洗っていた。
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たけしさんへのプレゼント

先週・今週の素敵な宇宙船地球号は、ゾマホンが故郷ベナンの汚染された湖を綺麗にする活動を追ったもの。日本で水質改善の専門家に土下座して協力を仰いだり(別に専門家は断ろうとしたわけではない)、ビートたけしにベナンへ一時帰国する許可を貰うために長々と説明して、たけしから話が長いと言われたりする。(そんなもの最初からたけしは許可するつもりだった)

ベナンでは、捨てられる大量のゴミが問題になっている。ベナンでいうごみとは、以前は木材や食べ物といった土に還るものばかりだったので、どこにでも捨てていたようだ。しかしビニールやプラスチックなどが生活に用いられるようになり、ごみ箱に捨てるという習慣もないままに以前のように捨て続け、土に還らないゴミがあふれてしまった。
今回ゾマホンが活躍したのは、とある水上集落。湖にごみを捨て続け、水が汚れてしまっているのだ。住民たちは湖をどうしたらいいのかわからない。そもそもごみを取り除こうともしない。今までの捨てっぱなしでよかった生活のせいで、そんな意識がないらしい。

ゾマホンは湖のごみ除去と水質改善作業をするために、住民を集めてその方法を実験を交えて教え、後日の作業への参加を呼びかける。現地のテレビにも出演し、広く参加を求めた。

水質改善方法は、目の大きい網の箱に牡蠣の殻を入れて、湖に投入するもの。牡蠣の殻に付着するフジツボなどの生物が水質を改善してくれるのだ。現地住民が永続的に行えることも目的にした、簡素な方法だ。

当初は非協力的な住民の姿もみられ不安だったが、作業には大勢の人が集まってくれた。
ゾマホンも湖にはいってごみの除去作業にあたるが、湖底に足をとられ現地の人のようにうまく動けない。(ゾマホンも現地人なのだが)
それでも懸命に作業するゾマホン。偶然、ごみに紛れていた掌ほどの魚を手掴みにする。カメラへ向かって魚を見せ、「これはたけしさんへのプレゼントにする!」と、いつもの口調で捲くし立てる。ところがその直後、魚は暴れて手からすり抜け、逃げていった。その鮮やかなしょうもなさに私は思わず、あっ、と声を上げてしまった。
ゾマホンは祖国ベナンのため実によく働いている。でも、いまいち格好がつかない。これはゾマホンがテレビに出始めたころから思っていた。実に真剣、実に立派。しかしこの度の魚のように、変なところで締まらないんだよなあ。日本語だって上手いのに変に早口だし。それでいいのだけれど。


ゾマホン・ルフィン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%9E%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3

外務副大臣岩屋たけしが、ゾマホン案内のもとベナンを訪問した際の手記。
http://www.t-iwaya.com/essay_bn/bn34.html
posted by ヨシノブ at 03:24| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

傑作の幻影が彼のうすつぺらな胸を騷がせては呉れるのであつたが

せかいおとぎばなし

 ジャックと井上ちんぽ君

むかしむかしのおおむかし、イギリスにジャックという少年が母親とふたりでくらしていました。ジャックの顔はあなたの嫌いな目上の人間を10歳若返らせた顔に酷似していました。
みなさんも知ってのとおり、ジャックのいえは貧しかったので、いえにあるものはみんな売り払ってしまって、とうとう1頭の牝牛がさいごの財産となりました。しかしそのさいごの財産も、今日は売り払わなければならないのです。

「ジャックや、市場へいって、牛を高く売ってきてはくれないかい。」
「はい、おかあさま。」

ジャックは牝牛をつれて出かけました。市場へのみちを、とことこあるいておりますと、男に声をかけられました。

「坊や、牛をつれてどこへいくんだい。」
「市場へ売りにいくのです。」

男は井上ちんぽ君をつれていました。
ジャックは牝牛と井上ちんぽ君をとりかえて、あとは天までのびる井上のちんぽを登って、雌鳥だのハープだの、この先どうなるかみんな知ってんだろ。だからもうここでおわる。寝ろ。




寝床で着想を得た段階では自己採点で75点がつき、いそいそと布団から抜け出てレシートの裏に要点を記したのだが、いざ執筆に取り組んでみれば筆進まず尻すぼみ甚だしく、45点の体たらくと相成った。(60点が採用基準。基準に達せずとも時局の判断を仰ぎこの限りに非ず。)
私が書くものは、面白くない。これは小学二年生の時に突きつけられた客観的評価で、これについてはまた日を改めて、力説したい。この評価が現在進行形であることは、カウンターの数字で日々証明されている。それでも、こうやって何事か書き、あまつさえ人前に出すのだから、私は強靭な精神力を有していると言わざるを得ない。うーん、死にたい。これ本当に45点もいってるか?


 追記
今まで書いたのを思い出してみたら、実際には採用基準点が60点を下回っていることがわかった
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2008年03月28日

08/03/27

やはり人の道に外れたことをやっておりますと、返りの風に吹かれると申しましょうか、己が身に好からぬことが起こるものでございます。へえ、私めのことにございます。
体が妙にぽわぽわいたしまして、あ、こりゃやられたなと、ピンときました。来てるな、呪をかけられたに違いない、そう思いまして、オン・アビラ・ウンケン・ソワカ、と一心に祈祷してみたのですが、一向に


目を見開いたまま目玉に針を刺そうといたしましたが、どうにもこうにも恐ろしくてたまらず、瞼の上から刺すばかりになってしまいまして、それで、こんな具合に成り果てましたのでございます。
それでもぶすぶす刺したおかげで、へぇ、このとおり熱は下がって、いまでは


蛆の湧いた豚を食っております。
いやいや、美味いものではございません。
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2008年03月26日

08/03/26

GyaOアニメアカギの配信が始まった。アカギは私の好きな漫画で、麻雀漫画なのだが、私は麻雀のことがよくわからないでいながら、好きな漫画だと言っているが、いいじゃないか。麻雀の駆け引きではなく、そこにある人間の駆け引きが好きで読んでいた。
アカギは最後に自殺してしまう。アルツハイマーに罹ってしまい、自分の意思がはっきりしているうちに、自分が自分として生をまっとうするために、死ぬ。仲間はアカギを止めようと説得するが、アカギの意思は変わらなかった。アカギは何も悲観にくれたり、意地を張ったりで死んだわけではない。生も死も、もっと自由でいいんだと思っていて、あれ、これアカギの話じゃねえや。アカギの話には違いないんだけれど、「天」という別の漫画に出ている時のアカギだ。「アカギ」はそのアカギが若いころの話です。私は眠いし胃が気持ち悪いし自分も気持ち悪いし長生きしません。生きていくのが恐ろしくてなりません。
posted by ヨシノブ at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢のない生活

2005/03/21


新声ドラえもんが動いて喋っているところを見る。
なんだかドラえもんの人格(プログラム?)まで代わったような印象を受けた。
まあ、何だかんだ言ってドラえもんはロボットですから、血も涙も肉も心もない機械人形なんですよ。ぜーんぶプログラムに基づいた言動。
のび太が
「ドラえもんはぼくの友達だよ」
と言うのは、ダッチワイフにチンポコ入れて、
「気持ちいいよ、めぐたん。僕の為に気持ちよくしてくれているんだね。うああ。最高だよ可愛いよ大好きだよああああ。好きだよ好きだよ好き好き。出すよ出すよああ。出る出る。うっ、ううううううう」
と言っているのと、あんまり違いは無いわけよ。本質的には。
前にのび太がドラえもんの菊門に無理矢理チンポコ詰め込んで壊しちゃった時に
「ごめんよ〜ドラえも〜ん、あああああ〜、ああーーっ」
と言っていたけど、それはダッチワイフに空いた穴にガムテープ貼りながら
「ごめんよ〜、今度からタバコの火には気をつけるよ、もう灰を落としたりしないよ〜」
と言っているのと、あんまり違いは無いわけよ。本質的には。
のび太がドラえもんと喧嘩して
「もうドラえもんのことなんてきらいだ! 溶鉱炉にほうりこんでやる! のぶ代と一緒に」
とよく言うけど、それだって部屋の片隅で萎んでいるダッチワイフに
「そろそろ捨てようかな……。でも、あと一週間はいいかな。燃えないゴミの日はなにも明日だけってわけじゃないんだし。あー、林原めぐみのおっぱい揉みてー。あー。チンポたってきた。あー。あー。ああー」
と言っているのと、あんまり違いは無いわけよ。本質的には。

「ぼくのいえにもドラえもんがきてくれればいいのにな」なんて家計のことも考えずに言うのは7歳くらいまでにしておいたほうがいいぜ。
それ以降は「夢」という言葉の裏に隠れた商業主義の姿に疑問を抱いて、もっとものを考えるようになって人間不信になってくれ。
俺みたいに大人になるとさ、「ドラえもんのポケットには未来道具が詰まっているだけじゃないんだよね。何より夢が詰まってる」なんて寝言は寝ても言わないよ。覚醒剤を打ったときくらいしか言わない。
もう、いろんなことに気付こうぜ。
ドラえもんになんか夢はない。ドラえもんなんて嘘話なのさ。ドラえもんはいない。
もう虚構に逃げるのはやめよう。
どんなにどんなに逃げ込んだって、明日来る悪夢は本物なんだ。
嫌な会社、嫌な学校、嫌な人間関係、嫌な生活。
朝から晩まで老いゆく体で追いかけるのは、更に老いた先での生活。
やめようぜ。気付いてない振りをして、誰かに踊らされるのは。
やめようぜ。踊らない奴に「夢がない」なんて眉をしかめるのは。
やめようぜ。気に入らない世界を遮断するのは。
はじめようぜ。現実を正面から睨みつける、夢のない生活。
もうすぐ4月。春の風は夢とは関係ないのに、気持ちがいいもんだ。


以上のドラえもん決別宣言を読んでもらっても解るように、俺はドラえもんなんかいらね。
そういう幼稚なお芝居にはついていけません。
俺は美少女型メイドロボットが欲しい。これは現実になる話だから。
技術は進歩しているからね、俺が実際にメイドロボットを手に入れる時代にはもうほとんど人間みたいな体してるの。
見た目は綾波みたいなのがいいかな。で、ちょっと甘えん坊な性格なんだよ。
本当は綾波1人で料理作るはずだったのに俺に手伝いを頼んできたりして、しょうがねーなーとか言いながら手伝うんだよ俺。もちろんメイドの声は林原だよ。
仕事終わらせた後にさ、うつむき加減の頭を擦りつけてきながら「…頭、なでて…ください」とか言うんだよ。よしよしって頭なでてやるとちょっと顔が赤くなってるんだよ綾波。
でも普段はちょっと冷たいくらいに素っ気ないんだよ。
でもすげー俺に甘えたいんだよ。だから俺も素っ気ない態度を続けていると、気を引こうとしてやたら視界に入ってこようとしたり、それとなくこっちの邪魔してきたりするんだよな。それでも態度を変えないでいるとちょっと泣きそうになって、それがまたかわいいんだよ。ああ綾波。

綾波1人に仕事を押し付けるのも可哀想だから、もう1人メイドロボットも連れてきてね、アスカみたいなのを。すると俺争奪戦が起こるわけだ。けんかするんだよね、あいつら。
あんまりひどいようだと俺も本気で叱るよ。だって、俺たちはもう家族だから。
主従関係を超えた感情が生まれてるわけ。だから本気になれる。
二人とも本当は仲が悪いわけじゃない。二人とも俺のことが大好きだからさ、ちょっと衝突しちゃうことがあるんだよね。俺もそれをわかってる。気持ちが通じ合っているんだよ。だからちゃんと仲直りさせるし、二人も俺の気持ちをわかってくれる。

アスカは気が強くて、積極的に俺に抱きついてきたり直接的な言葉を使ってきたりして、それが綾波には羨ましいんだよ。綾波もそうしたいんだけど、恥かしくてそれが出来ない。でもアスカって、態度とは裏腹に、本当はすごく繊細で傷付きやすくて、寂しがり屋なんだよね。俺に見捨てられるんじゃないかと怖くて、あんな風に俺を誘ってくるんだ。
「大丈夫、どこにも行かないよ。俺はこの先何があろうとも、ずっとアスカと綾波を守るよ。二人のそばから離れない。だって、俺の心はもう二人から離れられなくなってしまったのだから」
これはこの前、泣きじゃくるアスカと綾波を抱きしめながら言った言葉。
この時からかな、アスカは俺を心から信頼してくれるようになった気がする。
表情も、心から笑う顔が多くなったように感じるよ。
この二人に出会えた奇跡にすげー感謝してる。でも奇跡に頼っているばかりじゃないよ。
運命って自分で切り拓いていくものだから。この先、どんな運命が待ち構えているかわからないけど、俺は絶対にそれを乗り越えられる自信がある。
もうあの頃の俺じゃないんだ。今の俺には心を通わせた可愛い二人のメイドがついている。
未来に立ち向かうことに恐れはない。
唯一何か恐れるとすれば、それは二人を失ってしまうことだ。
アスカ「あんたバカぁ? あたしがあんたから離れるわけないじゃない!」
綾波「…絶対…離さないから…」
ははは、ごめんよ。そうだ。俺には不安なんて何もないんだ。
綾波とアスカの二人がいる未来は、きっと輝いているに違いない。
俺は今、輝ける未来への一歩を踏み出した。
可愛い二人とともに―――――――。




                                         *******Fin******
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2008年03月24日

今週の妖異怪録図絵

アンバサの怪

岩手県のとある民家で、毎晩どこからか物音がするのを家人が怪しんで調べてみると、台所の床下収納庫から、飲まずに忘れていたアンバサが見つかった。冷蔵庫で冷やしたあとに飲んでみると、それ以後は夜の物音がぱったりと止んだという。同様の例は全国各地に見られる。
これは付喪神の一種といえよう。アンバサが長年飲んでもらえずにいるのを恨んで、物音で己の存在を知らせたのだ。似た妖怪に、タンコロリンというのがいる。見知らぬ大男が柿をぽとりぽとりと落として歩いてゆく。あとをつけると、とある家の前でふっと消えてしまう。不審に思って調べてみると、その家には実るがままに実をつけていた柿の木があったのだが、いまやその実が消えている。実が重かったのか、誰かに食べてもらいたかったのか、柿の木が化けて出たのであろうということだった。
アンバサも、放っておくとゆくゆくは何者かの形になって、「白いおいしさ」を飲ませ歩いたのかもしれない。
なお、怪異を引き起こすアンバサは、どれも1990年以前に製造されたものばかりだそうだ。
posted by ヨシノブ at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 怪奇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月22日

冷暖房ナシ

冷暖房ナシ 山本夏彦  文春文庫

私が好きだった「ゆかいなバジル」について調べてみると、日本で出版しているのは金の星社であった。出版社などまるで気にしなかった幼年の頃でも、金の星社ポプリ社ほるぷ出版あたりは自然とその名を覚えてしまい、幼年から遠ざかった今でも、何処が何を出していたか忘れてしまいながらも、社名は覚えている。

かつて「金の星」という児童雑誌があったことを、私は他の山本の本で知っている。山本はかつて「赤い鳥」「童話」「少年倶楽部」「子供の科学」等児童雑誌の読者であり、これらについて書いている。蛇足ながら、金の星初代編集長はあの野口雨情である。
斎藤佐次郎は横山寿篤と共に児童雑誌「金の船」を創る。後に斎藤は横山と別れ「金の星」を創刊、金の星社を興し初代社長に就く。この斉藤の選で、山本の作文が金の星に載ったのだという。
時代も内容も違えど、私も山本もかつて金の星に親しんでおり、共にそのかつてを懐かしみ、更に私が今こうして山本に親しんでいることに縁を感じた。
この二人を繋いだ「金の船」「金の星」には、若山牧水が関わっている。私の実家には解説付きの牧水歌集が一冊あり、十代の頃ためしに読んでみて気に入ったのだった。私も山本も牧水も、金の星を通して知らぬうちに繋がっており、ますます縁を感じる。


山本の妻は、名のある病気ならばたいてい患ったという。乳癌に罹って手を術したが、再発して発見遅れ、検査すると癌細胞は骨に達していた。余命幾ばくもない。医者がそれを告げる前に、夏彦は偶然それを知る。抗癌剤を服用するが、やがて一縷の望みを懸けて副作用のない丸山ワクチンに乗り換える。丸山ワクチンは癌を治しはしないが、進行を止めた。
更に妻はリウマチに罹った。リウマチの全身に及ぶ耐え難き痛みは、ステロイドを服用すれば消える。しかしステロイドは丸山ワクチンの効果をも消す。副作用もある。胃にステロイド潰瘍も出来た。癌は進行した。
医者は医者として、否、人としてあるまじき言動で、その身に手の施しようがないことを突きつけた。

 健康な人ならみなキライだと妻はある時ふと漏らしたことがある。

 ある日妻は突然号泣した。死にたしという、死にたからむ、生きたしという、生きたからむ。


まだ挙げたい箇所はあるが止める。夏彦はドライに綴る。キライの後に続く一節などこうだ。さもあろうと私は同感したが、私もその健康なほうに属しているのだからめったなことは言えない。私は半ば死んだ人と暮らしているのである。
今に始まったことではない。自分を死んだ人と称し、死ぬの大好きといい、醒めた目で世を眺めて文を綴るのが夏彦の最期まで続く基本姿勢であった。ただ、水木しげるのドライが天然であるのと違い、山本夏彦のそれは、半ば本当だろうが半ば嘘で、技術であり詐術である。
まだ自宅療養のころ、まばらになった冬の生垣から遠くに透き見える夏彦の出勤姿を、妻は雨戸一枚あいたなかから見送り手を振って、これが見納めかと思ったのだという。病院に移ってから、夏彦が夕刻見舞いに訪れ、日が暮れたころ病院を出、振り返ると、七階病室窓から豆粒大の妻の影が手を振っている。夏彦は電話ボックスにかけより、その灯りの下で背伸びして同じく手を振る。さながら、「一太郎やあーい」である。
夏彦はこれだけ書いておいて、悲しいだの可哀想だのの類は書かない。
だからこそ、いったいどれだけのものを胸に押し殺してこれを書いたのだろうと、私は察しようとして察しきれないでいる。


山本の主宰するインテリア誌は、その美麗な内容に反し、古びたビルの朽ちたる一室で編集されている。しかしそれを伝えても、頑として紙面の延長線上に花やかな編集室を夢想する者がいて、あまりに是非訪れたしと云うものだから「冷暖房ナシ」の一言を放ってみると、漸く承知し諦めるそうである。中にはその一言を聴いた上でも訪れる者あって、仕事を手伝わされて嬉々としていたというから羨ましい。私も行きたかった。




一部、ウィキペディアを参考。
斎藤佐次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%BD%90%E6%AC%A1%E9%83%8E
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2008年03月20日

ツチノコに挑む

いやはや、猫も杓子も世を挙げて、すっかりツチノコブームである。
ツチノコとは目撃されど未だ捕獲されざる珍獣で、なんでも蛇に似るものの、頭は三角、胴は太くて尻尾がチョロリなる奇妙な体躯を有し、他には特徴が無いらしい。胴と尻尾の区分については各々考えるがいい。逐一説明してられぬ。
このツチノコ、捕獲すれば懸賞金出る。週刊誌やテレビ局に売り込めば、三つ四つと蔵が建つ。
捕らぬ手はない。

「ツチノコ!」
すっくと立ち上がり、呼んでみた。
息を殺してじっと待つ。敵は野生動物なれば、呼び掛けに応じなくとも不思議ではない。
策はまだ有る。

そっと押入れの戸を開ける。
来ぬならこちらが往くまでだ。
積まれた布団を、そっと捲ってみる。いない。手を奥深く差し入れて捜す。いない。
掛け布団敷布団毛布枕、その感触を腕いっぱいに確かめて、策は破れた。
されどまだ有る。

玄関の戸を、少し開いて首を出す。
本日は晴天なり。外気はすっかり春めいている。これならば陽気に誘われしツチノコ、必ずや現れん。更には我其を捕獲せん。激闘である。彼奴は野性の獰猛漲らせ、ガブリで噛み付いてこよう。しかし人類の知性は打ち勝つ術を知っている。手で彼奴の首めをがっしり掴めば仔細なし、首回らずガブリされず是にて捕獲完了の運び。野性は勇気ある知性に屈服するのだ。ツチノコを高く掲げる。見守る民衆は固唾を呑んでいる。私は用意しておいた鋼鉄の檻にツチノコを閉じ込め、鍵をかけた。その途端、嵐のような歓声が巻き起こる。英雄の誕生を祝う歓声である。村の娘らが駆け寄り抱きつく。だが意中の娘はそこにはいない。彼女は病に臥せって外出もままならぬのだ。あの、ツチノコに打ち勝ってそれを高く掲げたその姿を、彼女にこそ見て欲しかった。空はこうも青いのに、心は晴れぬ。その時丘へ目を転ずると、下女に付き添われて手を降る彼女の姿があった。瞬間胸に溢れた気持ちを吐き出すように、私は彼女の名を叫んだ―――。

当面の計画はここまで出来ている。あとはツチノコが顔を出すのを待つばかり。
チチチ、チチチと鳥が鳴く。
目にも鮮やか新緑の緑。
日差しと交じり合うような、春を含んだやさしい風が吹いてゆく。
こんな日に、両親と山菜を採りに山へ出かけたのを思い出す。
いつも前日になって父が突然言い出すのだ。おい、明日は山菜を採りに行くぞ。
他にも、きのこを採りに行くぞ、とか、釣りに行くぞ、とか。そして決まって言うのだ。明日の朝は早いから、今日は早く寝ろ。
父の趣味に付き合わされているような気がしていたが、今にして思えば、あれは親子の時間を作ろうとしていたのだ。
出来の悪い私は学年が長じるにつれ、父へ話しかけることがなくなった。会話が生じれば、必ずや話は勉強に及ぶ。私は勉強に不景気な話題しか持ち合わせていない。自然会話は説教となる。それは何百回と聴いた説教で、私の愚かさに総ての原因があるのだが、そうとわかっていても楽しいものではない。時に怒鳴る。手が出る。私はとうに泣き出していて、やがて母も泣き出す。
私が最低限の会話しかしなくなったある日、父に呼び出され、いつもとは毛色の違う説教をされた。
なんでお前は普通に話をしないのか。
この頃にはもう、単に成績を悪くする私の愚かさだけが原因ではなかった。意見を述べても理解できずに、理解しようとせずに、我を通してしまう父への苛立ちが充満し、いっそのこと何も言うまいとしていたのだ。その父が普通になどと言い出したことで苛立ちは爆発した。話をしたところで否定するばかりじゃないか。それで何を話すんだ。何と比べて普通なんだ。普通ってなんだ。
父が人の基準として、普通であれなどと漠然としたことを言ったのは、これが初めてだったと思う。多分、こうなってしまって、父は親子がどうやって、どうしていればいいのか、よくわからなくて、それでもどうにかしたくて、中身がわからないままに、普通だなんて上滑りする言葉を用いるしかなかったのだろう。そう自覚できていたからこそ、父は私の爆発に珍しく何も言わなかったのだろうと思う。

出ぬ。
ツチノコ出でぬ。それに鋼鉄の檻は用意していなかった。玄関から首だけ出しおる私を、先ほどから向かいの松岡さんがチラチラ見ておることでもあるし、此処いらが潮時か。


万策尽きて、喉を潤すため冷蔵庫を開けると、そこにはツチノコがいた。
チルドケースに入り、ソースの容器を齧りおる。
冷蔵庫が本拠地とは盲点であった。我が家への来訪者は年に一人程度である。これでは発見されぬも無理からぬ道理。
文明の利器に中てられたのか、野性の獰猛影もなく、為すがままに摘み出されたツチノコを片手にぶら提げ、懸賞金を受け取りに往く。

窓口にでんとツチノコ置いて「ほれ」と言えば、窓口職員飛び上がって「わあ」と言い放ちたり。
真贋判定始まりて、職員虫眼鏡でツチノコの細部仔細に観察せり。見守る我にも熱が入る。
機械に何やら入力し、ジージージーと吐き出されたるパンチカードに目を通し職員は言った。
「DNA鑑定の結果が出ました。これはあなたの子です」
なんと。ツチノコならぬオレノコであった。
「ほら、目元の辺りがよく似てますよ」
そう言われて見てみると、ぱっちり開いた目の辺り確かに似ているようだ。しかしこれでは懸賞金出ぬ。蔵も建たぬ。職員はポラロイドで我ら親子を撮影し、懸賞金代わりに写真を呉れた。虫眼鏡借りて写真を見ると、ソースの容器を齧りおる点を除けば、オレノコだけあり私に似ている。
「オレノコ」
口に出して言ってみる。とうとう親になったか。
「生後三ヶ月ですね」
パンチカードを示して職員が言う。もう三月も親であったか。
抱き上げ、ソースの容器を取り上げると、ちろちろ舌を出しながら私を見る。
蛇に似るものの、頭は三角、胴は太くて尻尾がチョロリなる奇妙な体躯を有するオレノコ。
名前を付けてやらねばならない。
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2008年03月17日

今週の「ふたりはプリキュア5GoGo!」

第7話「怪傑熟女! 心肺停止」

幕府から反幕府組織の新兵器やっつけろとの密命を受けたプリキュアのふたりは、伊勢湾海底に乳牛型潜水艦モーモーピューピュー1号を発見する。すごくかっこよかったので持って帰って乗り回して遊んだり、搾乳機型バックパックを装着して気が狂うほどに操縦していると、偶然にも艦内に謎の部屋を発見する。そこには原始人の一家が進化もせずにひっそりと暮らしているのだった。時を同じくして、幕府は反幕府組織の新兵器で壊滅した。
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2008年03月16日

ペイチェック 消された記憶

クリップ、レンズ、鍵、銃弾、コイン、まがった棒……。未来を知る自分から託された一見役立たずの道具は、実は迫り来る危機から身を守るための必需品であった。記憶を失った自分は、一体何を知っていたのか。

意味不明なアイテムで事態を切り抜けるというのが80年代のアドベンチャーゲームみたい(都合のいい展開てんこ盛りなのも)で、日曜の夜が気だるい時に横になって見るテレビ映画としてはそこそこの出来だった。
この手の映画を作るやつって何を考えているのだろう。途中主人公がバイクに跨って追っての車どもを巻く場面、やたらと運転がうまいんだ主人公。何でそんなに上手いんだ。太陽を盗んだ男で、ジェリーが一応一介の教師のはずなのにやたらと車の運転が上手くて、警察とカーチェイスをやったのにはげんなりしたものだった。ペイチェックも、今にも仮面ライダーに変身しそうなバイク捌きであった。
この作品の一番優れているところは、主人公が追われる原因となっている未来予知機械の大雑把ぶりだ。主人公が作り上げたらしいのだが、一体どんな仕組みで未来が予知出来ているのか全く説明がない。一言で言うと、駄作である。
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2008年03月15日

死にゆく妻との旅路

死にゆく妻との旅路 清水久典  新潮文庫


縫製工場を営んでいた著者は、安価な外国製品の台頭と長引く不況、そして自身の甘さから、周囲に多大な借金と迷惑を作り、自己破産寸前に追い込まれる。妻を実家に置いて一ヶ月の間金策に走り回るが、失敗に終わる。家に戻った著者は、妻の顔色が悪いことに気づく。大腸癌であった。摘出手術は成功するが、医者は再発の可能性があるという。早ければ、三ヶ月で。
夫婦は仕事を求めて車泊の旅に出る。養生しなければならない体であったが、妻は夫と離れ離れになるのを拒んだ。夫はせめて妻にはなるべく名所や風景をみせようとしている。これが五十と四十の夫婦ふたりが過ごす最後の時間となった。
新潮45に発表された手記に加筆してまとめたもの。


もしこれが創作であったらなば、すっきりとした気持ちで泣ける物語に仕上がっていただろう。しかし、ここにある夫婦は実在し、夫はこれを手記にした。創作ならば、綺麗に美しく力強く描かれたであろう夫婦愛は、ここにはない。
ここに描かれた夫の愛情は、垢じみた、どこか頼りないものだ。夫は、あまり良き夫ではない。もともと愛情を抱いて娶ったわけでもなく、婚前にデートをしたこともない。夫婦としても工場経営者としても、妻と会話することはあまりなかった。妻の浮気を疑ったこともあるが、それならそれでいいと思った。夫婦とはそんなものだと思っていた。自分は浮気をしたことがあった。
負の面を並べたが、読めば夫が決して悪人ではないことを読者は承知する。ここが創作にはあまりない感触であって、劇的な負の要素がなくて、もどかしい。夫の回想に私は、もっと妻の傍に居てやればよかったのにと思うも、手記の現在では、夫は妻を心底労わり傍に居ようとしているのを知っている。夫が悪人ならば、憎めたかもしれない。妻を気遣う姿に、カタルシスを感じたかもしれない。しかし、良し悪しの振り幅が夫が悪人であった場合のそれよりも小さいので、夫を憎みきれず、かといって妻を寂しがらせたことを見過ごすこともできない。それがもどかしい。
妻の自由意志はあまり示されない。スカートを一着求めたくらいで、あとは娘への連絡を数度とアイスクリームを欲しがったくらいか。この旅路に胸中何を抱いているか、よくわからない。ただ、夫と離れたくないことだけは強く主張する。稚気さえ感じさせる。それは文字通り命懸けの願いであった。

旅は数ヶ月後、妻の体調の低下にしたがって、終盤へと向かう。癌はきっと再発しているのだ。妻は疲れやすくなり、徐々に食欲が衰えはじめた。戻すようになった。やがて歩けなくなった。寝たきりになって痩せ衰え、記憶も曖昧になり、とうとう拙くもT字剃刀で手首を切り自殺を図ろうとする。
私は旅の終盤で落涙した。これは一体何の罰であろう。何度も病院を口にする夫に、頑なにそれを拒んだ妻の末路。苦しんでも苦しんでも、夫と離れることを拒んだ。夫は昼も夜もなく世話に追われる。手を握り、横に一緒になる。それは夫にとって、出来得る限りの最大限の献身である。しかし、私にはもどかしい。何故、もっと。今しなければ妻はもう。ページ数は尽きようとしているではないか。
ある日ふと傍を離れた隙に、唐突に妻は死んでいた。夫はここでようやく妻を抱き寄せた。ああ、どうしてそれを早くしなかったのだ。私がもどかしかったのはそれだ。世話や世間話だけではなく、妻への愛情と感謝を示すもっと直接的な言動が欲しかったのだ。こんなにも愛してくれた女に報いようとしたら、もうこれしかないではないか。生きているうちに、これを。

夫の愛情にどこか頼りないものを感じたのは、夫がどのように愛情を発露させればよかったのか知らなかった、もしくは、もっとこうすればよかったのにという私の願望、あるいは両方からの印象である。もっと妻と向き合えたなら。責めているのではない。こういう手遅れはよくあることで、夫は夫なりにすべてをやり、妻はその夫とともにいることを選んだのだ。この夫婦の末路にもっと幸せな一節が欲しかった私の無いものねだりだ。私だって後悔のない夫婦にはなれないだろう。
夫は不器用なやり方で何とか妻を労わろうとした。技術がない。だからこそ、見栄えしない剥き出しの血肉だ。美麗な文章の飾りもない手記の、物語としては拙い、哀しい実話だ。


娘との絡みや妻の死後のことも書かれているが、的を絞って感想を書いた。娘からの手紙も重要な存在だという理屈はわかるが、自分で家族を築いたことのない私にはまだ実感が遠すぎる。
そして実のところ、私には借金まみれになろうが妻が癌で死のうが、本当はどうでもいいのだ。まったくの他人事で、関係ない。私は社会と、他人と、堂々と関わっていくことが出来ない人間だから、私と関連することのない一個人の動向なんて意味がないのだ。あったとしても優先順位の低いことで、妻に向き合えなんて云う前に、私はもっと自分の身の振り方について向き合わなければならない。見知らぬ夫婦の話なんかで心を動かすにはまだ早い。そこはまだまだ遠くて無関係な世界なのだから。ここを自覚しなくては、自分が生きていくことに何か勘違いしてしまう。私が落涙したのは、私には無縁の人間的な営みへの憧れなんだろうなあ。
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2008年03月12日

朝日新聞血風録

朝日新聞血風録 稲垣武  文春文庫

発売当時、あちこちで取り上げられたのをよく覚えている。読みたいと思ってはいたのだが、ずるずると10年以上が経ち、ようやくの邂逅であった。
朝日新聞社勤務の経験から、なぜ朝日はあんな具合なのかを自身の実体験を軸に暴き、新聞のあるべき姿を説く。

私はその昔少々頭の軽い子供だったから、新聞というのは立派で正しいものだと思っていた。朝日なんて正義中の正義である。そうではないことに気付けたのは、10代の中ごろではなかっただろうか。頭の中身が大して増えたわけではないが、親がインテリ左翼じゃなかったせいか、さすがに変だと思うようになったのだ。
小学生のころにこういうものを読んでおきたかった。本書は中学生程度なら読んで難しいものではない。読書慣れしているなら小学生でも読める平易な文章である。難解な論理もない。それだけ朝日新聞が単純明快におかしいのだ。

新聞は読者の顔色を伺って、上司や指導者の顔色を伺って、歪んだ空疎な記事を載せ、反省もしない。勿論そうでない部分もあるけれど、重要な、少なくない部分で、実際にこういうことがあって、新聞はそれをひた隠しにし、恍ける。だから私は新聞が嫌いだ。ほとんど憎いと言ってもいい。

同類の教員と組んで、NIEなんてやっている。こんなもの、新聞信奉者育成に他ならない。
新聞が要らないとか読むなと言っているのではない。新聞がどういうものなのか、それはもう具体的に暴かれているのだから、それを前提として、新聞に流されない、新聞から読み解く力をつけるべきなのだ。
それには同著者の『「悪魔祓い」の戦後史』も好書である。


NIE
http://www.pressnet.or.jp/nie/nie.htm
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2008年03月09日

今週の「ふたりはプリキュア5GoGo!」

第6話「驚異のサプリ! ぐんぐん背が伸びる」

メポポン星人の邪悪な波動を感じ取ったプリキュアのふたりはトリソソノ検知器でメポポン強襲母艦の位置を捉えることに成功する。ベローネ作戦本部に情報を打電するが、熱暴走したトリソソノ検知器は仮名垣魯文の残留思念までも検知してしまい、プリキュアのふたりは敵艦情報の代わりに安愚楽鍋の原稿を打電してしてしまう。本部で作戦指揮にあたっていた光ルミナス本部長は送られた情報の意味がわからず、取り合えず適当な場所にミサイルを撃ち込んでみたら、着弾地点が偶然にもメポポン強襲母艦の潜伏拠点だったためにこれを撃破。辛くも宇宙の平和は守られたのであった。
posted by ヨシノブ at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月05日

08/03/05

オーウ、コレガ ジャパニーズドレス・キモノ、デスネー。
コレキルノ マイドリームデシタネ。
ワッツ? ザブトン? オウ、アイシー。ジャパニーズトラディショナルマットレス。オーケー。
セイザ? アーハン、チャレンジシテミマス。
オウ。オオウ。アウ。オーノー。セイザ イズ ベリーベリー ヒザ イタメマス。
デハ、オコトバニアメエマシテ、ヒツレイナガラ、アシクズシマス。カタジケノウゴザルマス。
センキュー。グリーンティ イズ マイフェイバレットドリンク
オーフ、チョト、アツイデスネー。
アーハー? ンー。 ンー。 ンー。 イエース、イエス。
アメリカ ニモ マクドナルド アリマス。
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霊長類ヒト科動物図鑑

霊長類ヒト科動物図鑑 向田邦子  文春文庫

向田邦子は石ころひとつからでも優れたエッセイを書く、というようなことを言っていたのは太田光だったと思う。いつか読まねばと思って思って、ようやく読んだ。いちいち中身が、ぎっしりになる手前のしっかりで程よく詰っている。土台がしっかり出来ているのを感じる。

覚えたばかりなのだろうか、「なかんずく」という言葉をやたらと使いたがる親戚の子供の話が出てくる。ガキである。
私はガキのころに「単なる」という言葉を覚えてしまい、それから数日は水溜りを指差しては「単なる水」、鉛筆を持っては「単なる鉛筆」、草を引っこ抜いては「単なる草」という具合に、いちいち声に出して「単なる」を堪能したものだった。
「単なる」を何事かの頭につけると、急にそこから温度とあらゆる繋がりを奪って粗末にし、固い床にコロンと放り出してしまうような感覚がある。それぞれの名詞につけるときはまだいい。やがて何でも「もの」という抽象的な言葉に置き換えたうえで、単なるをくっつけるようになる。水溜りも鉛筆も草も「単なるもの」だ。下校中だった私はあたりを見回して、車も人も単なるものだと気付く。学校も家もクラスメイトも近所の住人もガードレールも単なるものに過ぎない。自分だってそうだ、単なるものだ。ただここにあるというだけで、それだけのことだ。あらゆる繋がりを消してしまった今、すべての存在には必要がない。過去から未来へ張られていた糸がぷつんと切れて、そこを渡っていた自分という点がぽつりと取り残された。自分も必要ないのだ。
家に着くとすぐに拳銃を取り出して銃口を銜え、自殺した。小学2年の6月だった。
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2008年03月02日

いずれ我が身も

いずれ我が身も  色川武大 中央公論社

晩年のエッセイ。特に面白くはない。
こう書くと突き放しているようだけれども、同情の念を篭めている。
定期的に何事かを書き続けることの難しさは全く知らないでもない。ましてや決められた分量で、人に読ませなければならないと来れば、これはもう、たまったものではない。
ある編集長に色川はこう言われている。「貴方くらい勉強しない作家も珍しいね。才能だけで書いてる」。慙愧にたえぬと色川は言う。
勿論彼だって取材をしたり本を読んだりすることはあるのだけれど、日々勉めて精進するタイプではない。才能と幸運(怪しい来客簿「尻の穴から槍が」の結末を思い出してほしい)でここまで来たのは凄いことだけれども、不勉強のつけが、本書のような形で出てくるのである。
しかしこれで作家としても人間としても色川を批判するにはあたらない。他でいいものを書いているし、彼の不甲斐なさはすでに我が身も持ちたるところで、彼が他人の不徳に寛容であったように、色川を贔屓する私もまた、彼の不徳を寛容したいのだ。
posted by ヨシノブ at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

それでもボクはやってない

見たよ。腹が立って腹が立ってしょうがない。やってねえんだよ、その主人公の男は! 見てたもん、私は。
なになになんなのよ。これはなに。
映画館でこれを見た人はみんな向かっ腹おったてて見てたのか。こんな見方でいいんすか監督。問題提起とかそれ以前にもたいまさこの息子は痴漢をしていないんだよ!
posted by ヨシノブ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする