いつもゴミを片付けてくれるゴミ収集車のおじさんに感謝の気持を伝えようと、小学生の一郎くん(仮名)はゴミ袋にマジックで「いつもきれいにしてくれてありがとう」と書きました。
ざっとこのような話である。挿絵では主人公は使用前のゴミ袋何枚にも感謝の意を書き記していた。妹も手伝ったような気もするが記憶は定かではない。あくる日、字を見たおじさん思わず莞爾、くらいの後日談はあったような気もするが、その記憶も定かではない。
私の記憶がこの程度定かでないのはどうでもよい。問題は、いつまで袋にありがとうと書いたのか定かではない点だ。作中では触れていない。
最初は互いににこにこである。いいことしたなあ、と主人公。うれしいなあ、とおじさん。
やがて、である。主人公はにこにこしなくなる。いちいち書くのが億劫になる。最初は一枚一枚気持を込めてありがとうだったのが、十枚に一枚、五枚に一枚と、機械的にありがとうが混じり始めるはずだ。小学生なんてのは「毎日僕が散歩に行くから飼ってえ」と犬をねだっておきながら当初の宣言を反故にすることなど珍しくない「一時的に熱狂し、やがて冷酷なまでに飽きる生き物」である。大人でも珍しくないことだが、それは単に小学生の性質が抜けてない場合が多い。
自分だけで決めた「目標、毎日腹筋百回」。こんなことなら億劫になって止めてしまっても、平気も後味の悪さも自分のことだけで済む。だが、ゴミ袋にありがとうには、相手がいる。義務はない。止めるのは勝手。しかし、ある日ゴミ袋にありがとうを見つけなかったおじさんはどう思うだろう。
そこだ。私が一番読みたいのは、ありがとうが億劫になった主人公がどう葛藤し、どのようにありがとうを止めるのか、である。一生書き続けた、なんてのは目も当てられぬ御都合主義凄まじきファンタジーである。必ず止めるはずなのだ。
ありがとうは一回限りであったのだろうか。ならば次回、ありがとうを幾ばくか期待していて落胆するおじさんに対する心苦しさはどうやって切り捨てた、若しくは胸に留めたのだろうか。
後々になって、一度やって二度とやらないありがとうに対してどう思ったのだろうか。
作者(そして教科書に採用した選者)はこの話に何か見習うべき道徳があると思っている。生徒諸君も話のとおり直ちにペン持ちてゴミ袋に向かえ、と言いたいわけではないだろう。この話は何事かの道徳を託した一例である。だが、ここにその道徳を体現させているが故、この話のとおりにペンを持ってゴミ袋に向かわれたって文句は言えない。するとその先に待っているのは教科書にはない葛藤なのである。この葛藤に、どう答えるつもりであろう。私は一郎くんの道徳の行方が気になってならぬ。唯一の気休めは、この話は創作であろうから一郎くんも収集車に乗ったおじさんも実在しないであろう点だ。そして、気の休まらぬは、その行先も示さずにこれを道徳の範とする大人が確実に実在している点だ。



